伊勢に来て驚いたのは、ガソリン代が横須賀より10円以上も安いこと。三重県は2025年5月の時点でガソリンの安さで全国4位らしい。神奈川は20位(横須賀はさらにそこから10円くらいは高い気が・・)。
得した思いで給油し、向かう先は「松阪城」!「松坂城」が公式HPなどの表記だが日本100名城の登録名は前者だ。
国指定史跡・松坂城跡。
津城(前の記事に飛びます) に続いて、城めぐりの連投!果たして子連れでも楽しめるだろうか!?
松「阪」と、松「坂」の関係は大阪と大坂の関係になぞらえている。大坂が明治初期に大阪と改称されたのは、「坂」の字が「土に返る」と書き、死を連想させる文字だからだという説が有力らしい。松阪は大阪の後追いで改称された。
松坂城(こちらで統一する)は、「松阪市駐車場」へ停めると無料で城めぐりに便利だ。私らが訪ねた5/1(木)は、10時過ぎで満車に近かった。
駐車場から、徒歩2分ほどで松坂城の表門だ。この城の見所は素晴らしい石垣と桝形と御城番屋敷。景観が良いので、津城では待機だった妻にも薦めて出動した。
子連れ城めぐりとしては、津城のように平城ならそこまで大変じゃないが、松坂城は平山城である。
標高38mと低いとはいえ、7歳長男はともかく、3歳次男にとってこの傾斜はダルいに違いない。彼らに「城めぐりゃー」になってもらうには、迷路大作戦が有効だった!
この「公園」は、実は「迷路」だと話し、先に一番上まで行った方の勝ちだと煽った。複雑な縄張りを持つこの城は、まさに迷路のような城と言って良いだろう。
私「さぁ、サムライ迷路の大冒険!どっちに曲がればいいと思う?」
長男「(キュピーン🤩)うーん、右!」
次男「(キュピーン🤩)ぼくね、ぼくはこっち」
妻「しーん」
7歳長男が井戸をみつけて一目散に走り始める。松坂城内には3ヶ所の井戸があって、表門を少し上がった所にあるこの井戸は、現在でも水をたたえた唯一の井戸で、城内最古のものであると考えられている。
次男は「ふるいおうちあったよー」と教えてくれた。松阪市歴史民俗資料館だ。その名の通り、松阪市の歴史や武士や庶民の暮らしについて知ることができる。
3歳次男は、最初の坂で気力切れ。妻に甘えて抱っこ(やはり無理だったかー)。津城でもはりきってたから少し燃料切れか。
3歳って実際もうかなり重い。40超えたおじさん、おばさんにはキツイ。膝も腰も壊したことあるから古傷が辛いし再発も怖い。長男の時に3度目のぎっくり腰をやって2週間会社から離脱したし、半月板を損傷し、手術もした。満身創痍だ。
松坂城は、津城の規模よりはよほど大きいため、子連れでみっちり巡るのはほとんど不可能だと思う。ポイントを押さえ、ここは観たい!と思う場所を事前に調べておいて上手く子供を誘導しつつ天守閣跡を目指すのがおすすめ攻略法だ。
長男が本丸上段への石段を駆け登り始めると、妻が「そこ行って良い場所なの?」と心配する。基本お城では入ってはいけない場所には何らかのガードがなされているはずなので大丈夫だ。
むしろ通常の通路と思える場所よりこういう別ルートを見つけてくれるのは、子連れ城めぐりの真骨頂だろう。
松坂城は、本丸が上段と下段に分かれている。長男は近道を発見し先に上段へ行ったが、私、妻、次男は正攻法。見事に折れ曲がった中御門跡から本丸下段を横目に(下の写真で言うと、右手に長男が登った石段がある)上段を目指した。
本丸上段に上がると、長男は広々とした空間を走り回っていた。元々は、ここに蒲生氏郷の居館があったという。我々は最高峰の天守閣跡へ進んだ。
天守は、3層4階の望楼型天守がそびえていたというが、残念ながら江戸期の台風被害で倒壊し、再建はされなかった。なお、写真に撮っていないが、天守台には古墳時代の石棺の蓋が転用されている。畏れ知らずな見境のなさといえようか。このあたり、石仏だろうがなんだって使った織田信長の衣鉢を継いでいそうだ。
本丸は多門櫓が連なり、敵見櫓と金ノ間櫓で連結されていた。金ノ間櫓は、その名の通り襖や壁に金箔を貼り付けた黄金の間があったという。豪華絢爛な豊臣期の特徴ではないか。
松坂城の石垣の見事さは全国屈指と言って差し支えない。石垣を積み上げたのは、穴太衆(あのうしゅう)といって、近江(今の滋賀県)の石工集団である。彼らを城郭の石垣職人として一躍有名にしたのはかの織田信長で、安土城の石垣を積んだのが彼らである。
その織田信長から一目置かれていたのが、松坂を拓いた蒲生氏郷で、信長の娘をもらうほどであった。氏郷もまた、近江の出身である。
さて、戦国色の色濃く残る松坂城跡の一角に、ちょっと雰囲気が変わる場所がある。
国史跡の松坂城内にあり、史跡の国宝ともいうべき「特別史跡」に指定されているのが、本居宣長旧宅である。
国学者で町医者でもあった宣長は往時、城下に暮らしていたが、明治期になり今の場所・隠居丸跡に移転された。旧宅は、鈴屋と呼ばれ、宣長はここに12歳から72歳まで住んだという。
二の丸の藤棚の先から、御城番屋敷を眺めることができる。御城番屋敷の眺めを堪能していると、謎の城が目に入ってきた。
この城の名は「回天山暁ノ城」と言う。この城は平成28年に閉院した清水歯科の先生のお父さんが、大東亜戦争(太平洋戦争)末期に開発された特攻兵器・人間魚雷「回天」で戦死した長男の供養塔として建立したものだという。
あ、御城番屋敷まで続けようと思ったけど2500文字超えたから次回へ続く。だな。
裏門跡から城外へ出ると、御城番屋敷はすぐそこだ。
御城番屋敷は次の稿として、松坂城めぐりは、この後二の丸石垣を眺めながら駐車場へ戻った。
あまり取り上げられていないが、二の丸石垣は、切込接(きりこみはぎ)で高々と積まれた高石垣ももちろん見事だが、「鏡石」といわれる、訪れる者へ威厳を示す大きな石を用いているのも特徴的だ。
石垣にほれぼれする私を置いて、子供たちは居合わせたわんちゃん散歩の人たちと楽しそうにおしゃべりしていた。なでなでさせてくれたり、しっぽを触るのはわんちゃんは嫌なんだよ、と教えてくれたりしてくれて、子供たちも嬉しそうだ。
なお私は石垣に惚れぬいている。鏡石をはじめたのも、織田信長と言われている。二の丸は主に江戸期に積みなおされたものだが、全部そうなのだろうか。子連れを忘れ思索がめぐり巡ってしまった。いかんいかん。
以下おまけである。2009年に親父と松坂城へ来た時に撮影したものだが、綺麗すぎるくらいきれいな算木積である。平成の大修復時のものだろうか。小さめの石が積まれているのもかわいらしくていい。
つづく👇
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🏰子連れの松坂城跡 ~メモ~ 🏰 | ||||||||||||
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我が家の所要時間 | 約55分(御城番屋敷含む) | |||||||||||
子ども休憩施設 | トイレ城内に数ヶ所。各所多目的トイレに温水洗浄便座。 | |||||||||||
住所 | 三重県松阪市殿町1539(歴史民俗資料館) | |||||||||||
営業時間 | いつでも 歴史民俗資料館は 4月~9月:9:00~16:30 10月~翌年3月:9:00~16:30 |
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休館日 | なし 歴史民俗資料館は 月曜日(祝日を除く)、祝日の翌平日、年末年始(12月29日~1月3日)、展示替え期間中 |
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入館料 | なし 歴史民俗資料館は大人150円・6歳~18歳は70円 |
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駐車場 | あり。無料。松阪市駐車場 | |||||||||||
アクセス | JR・近鉄松阪駅から約徒歩15分。バスもあり。 | |||||||||||
ホームページ | 国指定史跡・日本100名城 松坂城跡 - お肉のまち 松阪市公式ホームページ | |||||||||||
👑松坂城の称号 🔱 | ||||||||||||
登録有形文化財 | 松阪市立歴史民俗資料館・本居宣長旧宅 | |||||||||||
国指定特別史跡 | 本居宣長旧宅 | |||||||||||
国指定史跡 | 松坂城跡 | |||||||||||
日本100名城 | (48)松阪城 |