しったかぶり!日本紀行

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28 石見国一宮・物部神社!穏やかな境内に三瓶山信仰の名残を見る

 古代の豪族・物部氏の祖神・宇摩志麻遅(うましまじ)命が祀られているのは、石見国一宮「物部神社」だ。三瓶山に流れを発する静間川が平野へ至る場所に立地している。宇摩志麻遅命は、初代天皇である神武天皇の時代の人物である。

石見国一宮 物部神社

物部神社へ!

社殿によると、宇摩志麻遅命は尾張国(名古屋のあたり)美濃国(岐阜あたり)、越国(新潟とか富山とか福井とか・・)、などを平定したのち、石見のこの地域に鶴に乗って降臨したという。この神社の背後にある八百山が、天香具山(あまのかぐやま)に似ていることから、寓居を築いたのが興りとされている。

物部神社 大鳥居

物部神社 大鳥居 狛犬の奥に鶴が置かれている。

ちなみに、行動を共にしていた天香具山命も、天香具山(大和国の山または高天原にあったとされる山)に見立てた彌彦山麓に鎮座し、越後国一宮・彌彦神社と現在呼ばれている。宇摩志麻遅命と天香具山命の関係は、仲良しでも恋人でもなく、異母兄弟とされていて、天香具山命は彌彦神社に越後の開拓神として祀られ、宇摩志麻遅命はここ石見国一宮に祀られ、勝運、鎮魂などのご利益、神職の始まりを為す神として、祈祷、まじないなどの信仰も厚い。

物部神社 手水舎

物部神社 手水舎

物部神社の末社に、一瓶社というお社がある。佐比売山三瓶大明神を祀る一瓶社は、三瓶山信仰の重要な手掛かりと言える。宇摩志麻遅命は、三瓶山の近辺に、聖なる三つの瓶を納め、平和を祈ったという。2つ目は浮布池の邇幣姫(にべひめ)神社に、3つ目は三瓶山麓の三瓶大明神に奉納された。

物部神社 拝殿

物部神社 拝殿

三つの瓶。そう、これが、三瓶山の名前の由来になったというのである。瓶というのも、「はんど」など、焼き物に縁のある石見にふさわしいエピソードだ。7月に行われる五穀豊穣を祈る「御田植祭」では、「サンバイサン」と呼ばれる、女の子によるショウブ撒きの儀式があり、三瓶山信仰の面影を伺うことができる。

 

 

 

境内は広大ではないが伸びやかな空間で気持ちが良い。先客であったパパと娘さんが参拝する姿が微笑ましく、ゆっくり作法通りに参拝して帰っていくのを見守ったあと(ヤバいおっさんに見られなかったろうか・・)、自信も参拝し、五穀豊穣(と我が身の栄達)を願った。

物部神社 拝殿と本殿

物部神社 拝殿と本殿

拝殿の背後の本殿は、天文19(1591)年、吉川元春により再建され(戦国時代に石見銀山の争奪戦の舞台となったのだ)、江戸時代の宝暦年間に焼失、再建されている。

現在の本殿は宝暦の様式を継いだもので、県内では出雲大社に次ぐ規模の本殿である。春日造の本殿規模としては全国一であり、出雲地域の神社建築の影響も随所に見られ、その希少な特徴により、県の有形文化財に指定されている。

石見 鹿

大田市久利町久利あたりで見つけたニホンジカ

この先は素人の私見だが、神仏混交ということがこの先の時代に日本で興るのだが、物部神社で垣間見られるように、先住の民の信仰と、後に入った者たちの信仰が、古代の時点で混交しているように思える。土着のアニミズムと古神道(といっていいのか?擬人化が得意な古事記的な信仰?)が、まず混ざったのではないか(つまり縄文と弥生の交わりといえるのか?)。

そう考えると、聖徳太子が十七条憲法で「和が尊いよ」を「仏教を敬ってね」より先、しかも第一条に持ってきた「唐突さ」に説明がつけやすい気がするのだ。不思議だよな。蘇我と物部の争いで、仏教派の蘇我が勝っているのに、神道は破棄されるどころか、神道の一手法として日本仏教(あえてそう呼ぶ)が興ったようにさえ見えるのだ。

 

旅は急ぎ足となっている。ニホンジカと居合わせたりしつつ、最終目的地の石見銀山へ向かうのであった。

To be continued... 👇

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旅のメモ📝
⛩ 物部神社 ~メモ~ ⛩
私の所要時間 9分
住所 島根県大田市川合町川合1545
参拝時間 自由(授与所等は8:30~17:00頃)時間外は問合せ
定休日 なし
利用料金 なし
駐車場 あり。無料
アクセス 大田市駅よりバス約15分(物部神社前・川合下車徒歩約1分)
ホームページ  石見国一宮 物部神社
👑 物部神社の称号 🔱
日本遺産  #101 石見の火山が伝える悠久の歴史
一宮 石見国
👛かかったお金 💵
賽銭 10円
小計 55,521円