しったかぶり!日本紀行

少しずつ読みやすくしてまーす^_^

江戸城をガチでめぐる[前編]~皇居東御苑から北の丸~ マジな巨城に圧倒される。

 近世における世界最大の都市は、なんと江戸であった。人口は100万を超え、2位のロンドンは63万人で、大差をつけているから疑いようのない事実なのであろう。その江戸は、当たり前だけど今は東京と名を変え、世界一ではないけれども今でも有数の規模を誇っている。

東京のビル。シムシティみたいだ。

シムシティさながらである!

地元の浦賀から東京まで来るにはそこそこ時間がかかるから、けっこう覚悟がいる。あと、江戸城のことを書こうと思うと、規模がすごすぎるからこれも覚悟がいる。

日本橋で地下鉄を降りて、どれくらい登るんだろうと思いながらエスカレーターを上がり、地表に這い出ると、巨大なるビル群(それも幾何学で美しい)のるつぼであった。

 

 

 

そんな東京のど真ん中に、江戸城の跡地があることを、多くの人は気にしていないだろう。というか、江戸そのものが、世界最大規模の城郭であった江戸城の、言ってみれば敷地内だったのだ。

今、江戸城を「城めぐり」しようと思うと、主に「皇居東御苑」を巡ることになる。せいぜい内堀である。以外に知らないのかもしれないが、東御苑の西側が、天皇陛下が暮らす皇居ということになる。

江戸城跡・桔梗濠から大手門を望む

桔梗濠と大手門

どこから攻めるか。では、堂々と大手門から攻め込んでみよう。江戸城の大手門は、一ノ門と二ノ門からなっている。手前の門は高麗門という形式で、江戸時代のものが現存している。高麗門をくぐると、桝形という、まっすぐに進めない防御構造になっていて、二ノ門は昭和20(1945)年4月の空襲で焼失してしまったものを戦後復元したものだ。

江戸城跡・大手門は空襲で焼失し、戦後再建された。

1967年に復元された。

この桔梗濠にしても、大手門の桝形にしても、全国に散らばる近世城郭のお手本のような形状をしているけど、規模はぶっちぎりに大きい。どんな城に行っても、こんなに人が小さく映ることはないよ。

江戸城は無料で見学が可能で、大手門の他に平川門、北桔橋門から入ることができる。

江戸城跡・大手門の石垣。切込接で積まれている。

大手の石垣。切込接。

江戸城の石垣の多くは、切込接(きりこみはぎ)という非常に整った積み方で積まれている。これだけの規模で切込接が見られる城は他にない。大手二ノ門をくぐったら、三之門へと進もう。

大手三之門跡の先に、同心番所が見えている。元は水堀に囲まれた桝形構造だった三之門跡であるが、今は桝形については面影があるが、堀は無く、下級役人の総称である「同心」が、三之門警固のために詰めていた同心番所が遺っている。

江戸城・大手三之門跡。石積みが残る。

大手三之門跡

尾張・紀伊・水戸の徳川御三家以外の大名は、ここで籠から降ろされ、検問された。

同心番所。江戸後期に築造されたと考えられている。

この先は、番所、番所、また番所である。他の城へ行って、番所をここまで並べられることは、まずない。同心番所の先は、広い曲輪(二の丸でいいのかな?縦長の曲輪だ)があり、約45mもある百人番所が待ち構えている。神の騎士団(ワンピース)みたいだ。

江戸城跡・百人番所。江戸城本丸御殿最大の検問所であった。

百人番所。大きい!

ここでは昼夜4交代で上級武士である与力20人と、同心100人が常に詰めていたという。本丸へと続く大手中之門と向き合って設けられたこの番所は、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が鉄砲百人のグループを組んで守っていたという。

江戸城跡・大手中之門。城内最大級の巨石が布積で積まれている。

大手中之門。人が小さく見える。

百人番所の向かい、大手中之門を見てみよう。こちらは本丸へ続く重要な城門だったこともあり、城内でも最大級の巨石が、石の目地が水平に通る「布積み」という技法で整然と積まれている。平成17年から19年にかけて綺麗に修復されたが、それ以前は、はらみや剥離でずいぶん劣化していたという。

 

 

石垣の高さは6mほどあるというが、ふつう、6mの石垣を中程度の城郭で見るとものすごく高くそびえているようにみえるが、江戸城の場合全体が巨大すぎるため、そこまで大きく見えなくなってしまっている。いや、デカいよ。本当に。

 

中之門跡を進むと、江戸時代の姿に修復された大番所がたたずんでいる。ここはもう本丸へ続く城門の中であり、高級武士が詰める最終関門だった。

江戸城跡・大番所。中之門を警固する最終検問所。高級武士が積めていた。

最終関門・大番所

この先にある石垣は、大手から中之門までの石積みと少し違うようである。江戸城は、古江戸城を築いた太田道灌以来、増築改築を繰り返して成長した城塞である。

江戸城跡・大番所横の石垣。古い時代だろうか。

大番所横の石垣は少し古い時代のものか?

こんな江戸城のコアゾーンでも、古い石垣が残っているのだろうか。といっても、野面積よりは時代が新しそうで、打込接のようだから、徳川家康初期の時代くらいで、そこまで古いものではないのだろう。

中之門の先であるが、桝形の構造としてはUの字カーブであり、台地へ続く坂道を登るイメージである。ここの石垣がまた丁寧に丹念に積まれていて、巨石文明の完成形が実は江戸幕府なのではないかと思えるほどにこだわりぬいた造作になっている。

江戸城跡・中雀門前の石垣。櫓台も見られる。

中雀門前の石垣。ひときわ丁寧である。

世界的に類を見ない「ミラクルピース」と呼ばれる平和な江戸時代であったが、何度も大火に見舞われている。天守も火災で焼失している。世界最強規模の城も、お江戸の華である火事には勝てないのだ。

 

 

 

そのため、早々に天守再建は諦めた。江戸幕府265年のうち、最初の51年間しか天守は存在していない。本丸御殿も焼けた。中雀門の焼けた石垣も、その時の類焼で焼けたものである。

江戸城跡・中雀門。大火によって焼けただれている。

中雀門。大火に遭いバキバキになっている。

この先が、いよいよ本丸および大奥となる広大な主郭部分である。遠~くに天守台が見えている。点在するベンチには人が座り、本を読んだり、もの思いにふけったりしていた。

江戸城本丸跡。その奥に大奥が、さらに奥に天守台が見える。

本丸と、奥が大奥、さらに奥に小さく天守台が見えている。

いそいそと観光している人の多くは外国人(や私)で、城跡の空間を自分のもののように活用しているのは日本人が多かったようだ。

本丸休憩所に増築棟が完成したのは令和2(2020)年。ここには1/30スケールの江戸城天守復元模型が置かれている。最後に燃えた寛永天守を資料を基に作ったという。これは興味深い!

江戸城跡・本丸休憩所増築棟の江戸城天守復元模型

本丸休憩所増築棟の江戸城天守復元模型

天守の規模はもちろん史上最大規模で、5重6階・石垣を合わせた標高は60mにも及んだ。ゴジラ-1.0のゴジラより(50.1m)もデカい。もしゴジラ映画で壊すなら、そうとう壊しがいがありそう。ゴジラ大好きな私は、大抵ゴジラの規模と天守を比べてしまうのだ。ちなみに、ゴジラは2作目で大阪城、3作目で熱海城、4作目で名古屋城を歴訪し、破壊している。

 

 

話が横道にそれた。本丸まで到達したら、ぜひ富士見櫓を見てほしい。本丸は広いから歩くのも大変だけど、富士見櫓~松の大廊下~富士見多門~石室~天守台とめぐるのが江戸城本丸の散策ではおすすめしたい。

富士見櫓は、どの角度から見ても美しい装飾が施され「八方正面の櫓」と称されていた。例えば、青森の弘前城の天守は、外から見える部分は装飾があったが、そうでない部分はいたって仏頂面であった。ただ、あれれ~?

江戸城跡・富士見櫓。その名の通り往時は富士山が見えたと考えられる。

富士見櫓。天守の代用として存在したという。

思ったより装飾性がないぞ~!おっかしいなぁ。・・・て、名探偵コナンみたいに言ってみたが、実際なんでだろう。これじゃ弘前城天守と同じじゃないか。ちなみに、皇居の一般参賀では正面から見ることができて、そこはちゃーんと美しい装飾がなされている。高さ16mの富士見櫓は、規模としては彦根城や宇和島城の現存天守と変わらない。

江戸城富士見櫓を本丸から眺める。

富士見櫓。意外と仏頂面?

出来る限り近寄ってみた。うーむ。シンプルだ。さては、関東大震災の被災でけっこうな被害があって、建て直したときにこういう形になったのではないか?

江戸城富士見櫓。装飾はいずこ?

一番近寄ってみた。

いずれにしても私は研究者でもなくしょせんは素人なので、素人目線で語っている事を理解してほしい。真相がわかったり、考え方が変わったら訂正部分を残して書き直そうと思う。

江戸城松の大廊下跡。「忠臣蔵」の発端となる刃傷事件が起こった。

松の大廊下跡。

本丸を右手に眺めつつ、左手に注目して歩くと、松の大廊下跡という石碑と説明版がある。通常だったら、江戸城の広大な御殿の一廊下である松の廊下は、あえて説明が必要な廊下だったろうか。廊下なだけに。

 

 

松の大廊下跡とは、あの「忠臣蔵」、赤穂浪士の討ち入りの発端となる浅野内匠頭による、吉良上野介への刃傷事件があった、あの廊下である。江戸期の人情、人々の感性を考えるうえで、この一連の事件はとても貴重な資料といえる。

江戸城跡・富士見多門。内部公開されている。

内部が公開されている富士見多門

その先は、ちょっと写真が撮りにくいが「富士見多門」が現存している。こちらも関東大震災で大きく被災したが、詳しい現存の状況はよくわからない。明暦の大火の復興時に建てられたと考えられている。

江戸城跡・富士見多門内部。富士見多門についての展示がある。

富士見多門内部

いずれにしても、城内で唯一残る多門櫓なので、貴重な遺構であることに変わりはない。格子窓の向こうに見えるのは皇居の方面であるが、近づいて見れないので一生懸命覗いてみたがよくわからない。

江戸城跡・富士見多門からの眺め。

富士見多門から皇居を覗く不敬。

江戸城は、都心のど真ん中にありながら自然も多く、豊かな生態系もある。けっこう珍しいらしい。首都のど真ん中にこんなにも緑があるのは。

江戸城跡富士見多門付近。自然が豊か。

江戸城跡は自然も多い。

さらに歩くと、石室という遺構がある。はっきりした用途が分からないそうだが、火災があった時に大奥の調度品なんかを避難させる目的があったのだとか。小耳にはさんだくらいの情報で申し訳ないが、江戸という時代、江戸という都市は、火事で燃えるのを前提で設計されていたという。

江戸城跡・石室

石室。その用途とは!

そして、いよいよ天守台へと歩を進めよう。この天守台は、先に触れた明暦の大火で焼失した天守を再建するために組まれた天守台である。しかし天守台が出来上がったものの、大火で大きなダメージを受けた城下町の再建を優先させるために、天守築造は先送りとなり、結局天守は再建されないまま、幕末を迎えることとなる。

江戸城跡・天守台。巨大な石造りの建造物である。

いよいよ天守台へ

「江戸城天守復元」というワクワクする計画もあるようだが、実は天守は「無い状態」のほうが通常ということも知っておきたい。プライドの塊のように思える江戸幕府も、威光を見せつける天守よりも城下再建を優先させたのは、どのような思惑があったとしても英断なのではないか。

江戸城跡・天守台へ登る。

天守台は軽く登山だ。

四代将軍家綱の時代の決断であり、若い将軍を補佐する叔父・保科正之が、天守閣の時代遅れであることを説き、城下優先を建言したものだという。

江戸城跡・天守台の頂上は広く、ベンチが置かれている。

天守台頂上。広い。

天守台へひと登り。てっぺんは広々としていて、ベンチが置かれ観光客の憩いの場になっていた。江戸時代はどんな感じの扱いだったんだろう。緑に覆われていたのだろうか。

江戸城跡・天守台からの眺め。大奥、本丸方面を一望する。

天守台から大奥を眺める。

天守の形状を見ていくと、天守台内部に地下一階くらいの構造があったようにも見て取れる。こういう部分の想像の余地があるのは楽しい。変に知らないようにしとこっと♪

江戸城跡・天守台。地下構造があったのかは不明。

地下の構造はあったのだろうか。

それにしても、標高で言うと80mにもなる天守がここに建っていたら、それこそ世界遺産は間違いなかっただろう。

江戸城跡・天守台。国内最大の規模である。

天守台から降りる。

空前の木造建築物だったに違いない。いや、でも明治政府が焼いちゃったかもな。廃城令、廃仏毀釈。これらはホントにもったいなかった。

 

 

江戸幕府の性格をにじませるような、繊細で律儀な石垣は、天守台でも健在である。100万石の経済力を誇る加賀藩前田氏に天守台だけでも作らせたのは、後世へ残す意味でも、加賀藩への嫌がらせとしても正解だったように思える。

江戸城跡・天守台。勾配がけっこうある。

スラリと斜めに切られた天守台の石垣

この天守台も、その後の大火にさらされ、一部焼けただれている部分がある。この時の火災では本丸御殿が焼失し、その機能は西の丸に移すことになったらしい。

江戸城跡・天守台。石の壁のような長大さ。

まるで石の壁。

なお、江戸幕府が天守を再建しないことにより、諸藩もこれにならうしかなくなった。幕府は三階櫓である富士見櫓を実質の天守とし、諸藩も同様に三階櫓を実質の天守として運用する羽目になる。きっと、立派な天守建てたい殿さまもいただろう。まぁ、建造の許可が下りないかもしれないが。

江戸城天守は再建されず、その余波は諸藩にまで及んだ。

江戸がそうするなら藩もそうせねばなりますまい。

実はこの日、私は靖国神社へ参拝をしに来ただけのはずで、江戸城は突っ切るつもりでいた。何度か来てもいたし、気を抜くと真剣に城めぐりになっちゃうからだ。

もうすっかりガチな城めぐりである。意地になっている。江戸城を突っ切って靖国神社へ行くなら、天守台を横目に見ながら北桔橋門を突破して北の丸公園を縦断すれば九段下、靖国神社の参道になるのだが、この時は梅林坂を下っている。

江戸城跡・梅林坂。平川門方面へ抜ける。

梅林坂は太田道灌の逸話が残る。

梅林坂は、この地にはじめて築城した太田道灌が、この近辺に天神社を祀り梅を数百株植えたと伝えられていて、今でも70本程度の紅白の梅が植えられている。古い時代の江戸城を想起させるだけあって、ここにも打込接の石垣が混じっている。いや、野面積にも見える。

江戸城跡・梅林坂の石垣。切込接と打込接が存在する。

新旧の時代を思わせる石垣の配置

このあたりから、二の丸の汐見坂方面の石垣は、徳川家康時代のもので、城内でも最古の石垣の部類に入ると言われている。

江戸城跡・二の丸方面。

さすがに二の丸は別方面なので・・・

汐見坂方面はさすがに真反対の方面なので、平川門の方面へとあゆみを進めることにした。下梅林坂門跡は、石垣が残るだけだ。

江戸城跡・平川門方面への桝形

平川門の方面へ

こちらの方まで来ると、観光客も少しまばらになり、どちらかというと迷っちゃった一団が、意外と古城感があってイイネ!といった感じで写真を撮っているのが印象的であった。

江戸城跡・平川門へ。大手のような桝形構造

大手と構造は似ている。

この桝形の先は(出ていく方向なので注意)、二の丸方面の天神濠と、北の丸方面へ繋がる平川濠を通るが、ここはなかなか古びた感じがしていい。

江戸城跡・天神濠。

天神濠を眺める。

江戸城の内堀はけっこう細かく名前が分かれていてどこの写真が何堀だったか分析するのに割と骨が折れる。

江戸城跡・平川濠。北の丸へ続いている。

平川濠。平川門が見える。

江戸城のスケールはもちろんだが、その多彩さにも圧倒される。整然と積み重なった切込接の完成形である布積みを見た矢先に、その手前の技術である打込接の石垣が古色蒼然として遺っているのだ。

 

 

打込接もだが、石積みの角を補強する算木積も立派なもので、現代にまで残る仕事をした石工の集団に敬意を払わずにはいられない。

江戸城跡・平川濠越しに下梅林坂門跡を眺める。

平川濠越しに下梅林坂門跡を振り返る。

平川門は、三の丸の正門で、大奥の女中が出入りしたことから、お局門と呼ばれたり、死者や罪人を運ぶ用途もあった事から、不浄門と呼ばれたりもした。

江戸城跡・平川門。大奥に続いていたことからお局門の異名がある。

お局門の異名がある平川門。

江戸城の定番である、高麗門と櫓門の組み合わせ。桝形構造のスタンダードは城内でも様々な場所で使われている。

江戸城跡・平川門。高麗門。

平川門の一ノ門にあたる高麗門。

こちらの城門は江戸初期から残るそうだが、文化財には指定されていない。先程の富士見櫓なんかと同じような理由だろうか。ちなみに、表の高麗門の他に、「不浄」を運んだとされる門もあり、細い帯曲輪へ繋がり、竹橋御門まで続いている。

江戸城跡・平川門。高麗門内、正面側から

平川門の入口側

帯曲輪を歩きたいところだけど封鎖されているので、平川橋から公道に一旦出て、竹橋方面を目指す。ちなみに、平川橋が渡る濠は、大手濠の西北端に近い場所だ。

江戸城跡・平川門全景。大手濠から。

平川門全体を見渡す。

江戸城の内曲輪には15門が存在していたというが、竹橋御門は名前の由来は諸説あるが、天正18年に徳川家康が入国したころに、「竹を編みて渡されし由の名なり」と伝わっている。

江戸城跡・竹橋御門跡。石碑が残るのみ。

竹橋御門跡。碑が置かれている。

写真の左に映っている石積みが帯曲輪である。お堀は平川濠で、右の石垣は本丸のもの。五十三間多門が連なり、五十三間櫓や梅林櫓が建っていたという。平川門、竹橋御門ともに、仙台藩主の伊達政宗が造営したものと伝わっている。

江戸城跡・竹橋から平川濠を眺める。

竹橋方面から平川濠を眺める。

この近辺の石垣の高さは18.5mあり、城内でも最大の高さを誇る。北桔橋の高麗門と築地塀の白さが際立つ見栄えだが、石垣にうっそうと茂る雑草の造形もまた乙である。この北桔橋門も、もとは桝形構造で、高麗門の先に渡櫓門がどっしり座っている形式だった。

江戸城跡・竹橋方面から北桔橋門を眺める。

平川濠と北桔橋門を望む

北桔橋門は江戸城の搦手の位置づけで、有事の際は「桔橋(はねばし)」の名の通り跳ね上がる構造だったり、ヤバい時はここから脱出することになっていた。私も江戸城から脱出するべく、北の丸方面へ折れた。

江戸城跡・北の丸。竹橋ジャンクションが横切っている。

北の丸へ。竹橋JCT

北の丸には東京国立近代美術館や科学技術館、日本武道館などがあるが、江戸城としての見所も遺されている。まっすぐ歩いて行くと武道館に行ってしまうので、科学技術館の先を右に折れてみよう。

このあたりまでくると、外国人はおろか人が通ることが稀である、静けさのある城は、地方でも江戸でも変わらないことに感心した。

江戸城北の丸跡 重要文化財の清水門へ

清水門から江戸城を抜ける。

江戸城をめぐると、大手から本丸まで行って大満足できちゃうけど、この裏っかわに重要文化財が遺っているんだから油断ならない。そしてこの古城感!東京のど真ん中でも、この埋もれた感じを味わえるんだから、東京ってすごいよ!

江戸城北の丸跡・清水門で古城感を味わう。

ぜひみてほしい、この古城感!

ここまで、桝形はよくのこっていても、坂の石段はスロープになっていた。この清水門の坂・雁木坂は江戸時代そのままに残っている。

 

 

 

雁木坂の反対側には石段が残っていて、登ることもできる。北の丸は本丸近辺よりずっと自由に観ることができるのだ。

江戸城北の丸・清水門の雁木上から眺める清水濠と牛ヶ淵

清水門の雁木上から右・清水濠。左・牛ヶ淵

石段上からは、清水濠と牛ヶ淵にの間に架かる清水橋を一望できる。手前に両方の濠を繋ぐ水門があるが、これも江戸時代からの姿をとどめている貴重な遺構だ。

振り返って清水門内を眺めてみる。うーん。門に入ったら180度Uターンかぁ。これは攻めにくい。ていうか、一瞬道を見失い、迷子みたいになるだろうな。

江戸城北の丸跡・雁木上から清水門内の眺望

清水門雁木上から清水門内を眺める。

櫓門をくぐり、桝形内へ。ここで一人写真を撮りまくって自分の世界に入っていたら、高麗門から入ってきたおっちゃんが写真を撮ってくれた。どうやらおっちゃんも撮って欲しかったようで、ついてにお願い!と言うのでお互い撮りあいっこして別れた。

江戸城北の丸跡・清水渡櫓門。

清水門の桝形内から門内を眺める。

スーツ姿のおっちゃんは、そのまま櫓門内へ消えて行った。そうだよなぁ、平日だもんね。どうも、この門はサラリーマンの抜け道にもなっているのか、さっきまでの観光客ゾーンとはうって変わり、制服姿の人が歩いている頻度が高かった。

江戸城北の丸跡・重要文化財 旧江戸城清水門跡

重要文化財・旧江戸城清水門

清水門は、創建年代は不明だが、高麗門に残る扉釣金具に刻まれた万治元年の刻銘によって、築造年が判明している。多少修理復旧を行った記録があるが、貴重な遺構であるとして、国の重要文化財に指定されている。

江戸城北の丸跡・清水橋から清水門

清水濠と清水門方面

このあたりの石垣は野面積という割と古い積み方だが、地震に強く、積み方も野面のわりに精巧に見えるからずいぶん後期の野面積の完成形と言えるかもしれない。

もはや大手とは完全に存在する人間の層が違っていて、職員・サラリーマン。そんな人たちがちょっと一休み、人払いして電話。そういったエリアとなっている。

江戸城北の丸跡・清水橋から牛ヶ淵を眺める。

牛ヶ淵を眺める。

観光の風景にもサラリーの風景にもなじめず、私はひとり江戸城をめぐっている。思いのほか長時間となり、ブログを書くのも、もうまる2日かかっている。江戸城はそれくらい広く多様である。清水橋から日本武道館の見える牛ヶ淵を眺める。

 

 

 

ここでは濠と言わず、淵と表現が変わっている。確かに、そんな雰囲気を醸し出していて、石垣も総石積みではなく、少しマニアックな「鉢巻石垣」「腹巻土塁」「腰巻石垣」の三段構造が見られるようになる。

このあたりではオフィスの一角がプロムナードのようになっていて、キッチンカーで買ったお弁当(もちろんおしゃれなやつ)や、ドリンク(もちろん以下同様)を頂きながら牛ヶ淵を眺められるようになっていた。

江戸城北の丸跡・田安門橋から牛ヶ淵を望む

田安門橋から牛ヶ淵、バラフライガーデンを望む

三段構造とは、真ん中が土塁で、上(ハチマキ)と下(コシマキ)に石垣を配した構造で、総石垣にするとお金がかかりすぎたり、そんなに強固にする必要なかったり、時短だったりいくつか理由があるけど、案外「ちょっとおしゃれじゃね?」みたいな感覚も無きにしもあらずだったんじゃないかなぁと感じたりもした。

江戸城北の丸跡・重要文化財 田安門 高麗門

田安門も重要文化財!

さあ、いよいよ靖国神社も目の前だ。最後に、これも重要文化財の田安門に寄って、江戸城の前編を〆たい。

江戸城北の丸跡・田安門の鉢巻石垣(と腹巻土塁)

田安門の鉢巻石垣

田安門は、江戸城北の丸の北端に位置する桝形門で、正面に高麗門。右手に櫓門の江戸城定番スタイルである。清水門同様に修理はおこなわれているものの、扉釣金具に刻銘が残っていて、寛永13年に建造されたことが分かっている。

江戸城北の丸跡・田安門 櫓門。石垣は切込接

田安櫓門

田安門は江戸城の総構え(城下全体を城で囲うこと)の完成当時に出来た城門として、江戸城唯一の遺構であり、その貴重さを評価され、重要文化財に指定されている。

江戸城北の丸跡・田安門 桝形

田安門桝形内

ここの石垣は、切込接である。田安門の先は日本武道館がある。北の丸の敷地は小城が太刀打ちできないくらいの規模があり、「淵」と呼称するほどの濠でがっちり固めてある。

江戸城北の丸跡・田安橋門から千鳥ヶ淵を眺める。

田安門橋から千鳥ヶ淵をながめる。

江戸城の主要部分から少し離れているように思えるが、きらびやかなイメージがある本丸から三の丸とは一線を画し、入場券もいらずに、むしろ江戸城の旧来の姿をしのぶことができる。城門も現存・重要文化財の清水・田安両門があり、見所も多い。

 

田安門の外は、すぐに靖国神社である。いざ、参拝だ。

 

つづく👇

sittaka-travel.com

ブログランキング参加してます!

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村 

旅のメモ📝
🏯江戸城 ~メモ~ 🏯
私の所要時間 1時間45分(大手門~皇居東御苑~北の丸)
住所 東京都千代田区千代田1-1
公開時間
(皇居東御苑)
3/1~4/14    午前9時~午後5時(入園は午後4時30分まで)
4/15~8月末   午前9時~午後6時(入園は午後5時30分まで)
9/1~9月末     午前9時~午後5時(入園は午後4時30分まで)
10/1~10月末 午前9時~午後4時30分(入園は午後4時まで)
11/1~2月末   午前9時~午後4時(入園は午後3時30分まで)
休園日
(皇居東御苑)
月・金曜。12/28~1/3。
天皇誕生日以外の「国民の祝日等の休日」は公開。
月曜が休日で公開する場合は、火曜休園。
入園料 無し
駐車場 無し
アクセス 東京駅、大手町駅から徒歩数分。
ホームページ 皇居東御苑 - 宮内庁
特別史跡江戸城跡|皇居外苑|国民公園|環境省
👑江戸城の称号 🔱
重要文化財 (今回紹介した部分のみ)清水門・田安門
国指定特別史跡 江戸城跡
現存建物 (今回紹介した部分のみ)大手門・同心番所・百人番所・
大番所・富士見櫓・富士見多門・平川門・清水門・田安門
日本100名城 (21)江戸城