東京に来てから2時間。ついつい江戸城をしっかりめぐってしまい(前記事へ飛びます)、靖国神社へ来たのはすっかりおてんとさまも昇りきった正午すぎだった。
思い出した。坂になっているんだ。ここに来たのは、そうだな、15年は経ってるかな。何度か来ていて、最初に来たのは19歳とか、そのくらいの頃だったかも。若い頃は色々な思いがあって、今よりずっと厳粛な気持ちで来ていたな。
「彼ら」とあえて言う。彼らはその当時の私と変わらない年齢で、戦地へ赴いたのだ。その思いの一端にでも触れたくて、彼らのことを若い頃はよく想像していた。
おっと、説明が不足しているな。
靖国神社(正確には靖國神社)は、明治2(1869)年、明治天皇の発案、大村益次郎の創建により、東京招魂社として建立された。明治12(1979)年には「国を靖んずる」という意味を込め「靖國神社」と改められ今日に至る。
江戸幕府の時代が終焉を告げ、明治維新により近代国家を目指した日本は、世界史的に観れば極めて稀有である「大政奉還」により平和的に(繰り返すが世界史的に観れば)国譲りが行われたが、やはり多くの血が流れた。その御霊を慰めるために、この靖国神社は創建されたのだ。
なので、靖国神社は、坂本龍馬や中岡慎太郎、高杉晋作に吉田松陰といった、幕末に活躍した人たちも祀られている。明治以降の日本は、日清・日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦など、多くの戦争、動乱を経験した。世界の戦国時代と言えるこの激動の時代に多くの人が国を護るために血を流し、亡くなった。
軍人だけではない。戦場で救援を行った看護婦(今では看護師と書くが)や女学生、軍需工場で亡くなった学生から、「戦犯」とされてしまった人など、身分や勲功に関係なく祀られている。その御霊の数は246万6千余柱に及ぶ。
私が「彼ら」と言ったのは、主に大東亜戦争(今では太平洋戦争と言わされるが)で亡くなった、ことに特攻隊で亡くなった若者たちのことだ。彼らは、あまりにも若い年齢で死地に赴いており、同じくらい若かった私は、その彼らの思いを知り得るには、あまりにも想像力が欠如していた。なので、知ろうとした。それで、靖国神社へ何度か足を運んだのだ。
遊就館は、靖国神社の境内にあって、国のために命をささげた英霊に触れ学んでほしいという願いのもと、中国の古典から「君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く」の遊と就を取り、ゆうしゅうかんと名付けられた。
お腹が空いたので、館内の茶寮 結でお昼にした。メニューはうどんやカレー、白玉あんみつなどの甘味もある。海軍カレーもあるが、横須賀市の人間としていくらでも食べているので、控えめに屋台風焼きそばを食べ、靖国神社をあとにした。
有料の展示は、西南戦争から大東亜戦争終結までの展示や祭神(と書くと急に馴染みにくくなるが)の人となりやエピソードを観ることができる。今回は子供を幼稚園に迎えに行かねばならない関係で寄らなかった。
私もすっかり40代になり、のんべんだらりと令和の今を生きている。彼らの遺書の字。あれは衝撃だった。同い年くらいのその人の文字。字でわかる覚悟の、生き方の違い。私は、一生かけてその思いの一端を垣間見れるかどうか、だと感じ、靖国神社へ行かなくなった。まず、生きねばならない、と思った。普段は忘れている。こういう性格なので、九分九厘は忘れているが、一厘、一毛だけでも、なんとか残っていると思いたい。
彼らは普通の若者である。歌が下手だった。女の子ともっと遊びたかった。絶対に護ると思っていた。骨になるだけだと思った。家族といたかった。逃げたかった。様々な思いを持ち、死地に赴いた。私は彼らを英雄だと思う。
彼らの護りたかった国は、いまどうだろうか。時々、そういうことを考える。故郷の風景はどうだろう。子どもたちはどうだろう。海や山や川や空はどうだろう。自分はどうだろう。
今回も、ひさしぶりにそういう感じで思ったりして、やはり時々は来ようと思ったのであった。
つづく(江戸城後半‥広い‥)👇