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※この記事は、童話「ごんぎつね」の物語の核心に関する重大なネタバレを含みます。
小学校2年くらいだったか。「ごんぎつね」。
なんだかネットニュース界隈で話題になっていたから、ひさしぶりに読んでみたよ。
この物語は、「私」が小さいときに村のじいさんから聞いたとしてスタートする。
中山から離れた山の中。ひとりぼっちで暮らす小ぎつねの「ごん」は、昼夜問わず人間にいたずらばかりしていたという。
いもをほりちらす、菜種がらへ火をつける。
火はこわいなぁ汗
このあと、3日降り続いた雨上がりの晴れた日の情景が、とても美しく描写されている。ひょっとしたら、作者の新美南吉さんが、実際に眺めていた風景なのかと思うくらい具体的だ。
ごんはその情景の中で魚を獲ったりしてる「兵十」というおじさんを見かけ、その魚を片っ端から逃すといういたずらをする。兵十はそれを目撃して怒鳴るも、ごんを捕えるにはいたらず。
10日ほど後、何か忙しない村の様子をいぶかしむごん。壊れかけた兵十の家には大勢の人が集まり、よそ行きの服を着た女たちが
「表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえてい」た。
ごんはこの光景を見て、葬式が行われていることに気付き、死んだのは兵十のおっかあだと知り、そのおっかあが病床で欲したであろううなぎを、自分がいたずらをして逃してしまったと連想する。
そして、「ちょっ、あんないたずらをしなければよかった」と後悔するのだ。
兵十は母と2人で暮らしていたが、ごんと同じ、ひとりぼっちになってしまった。
ごんは罪滅ぼしに、いわし屋からいわしを盗んで兵十の家に届け、つぐないとした。
ただそのために兵十はいわしを盗んだと疑われ、いわし屋にぶんなぐられてケガをしてしまう。
ごんはしまったと思い、それからは山で拾った栗や松茸を届けるようになる。
そして話は少しややこしくなる。
兵十は、栗や松茸が置かれることを不思議がって加助に相談すると、それは神様がしてくれたことだから、神様に礼を言えという。
ごんは、自分に言わず神さまに言えとは、割に合わないと思い、不満げである。
それでもごんは翌日も栗を持ってこっそり届けようとするが、うっかり兵十に見つかってしまう。
兵十はうなぎを盗んだにっくきごんぎつねがまたいたずらをしに来たと思い、火縄銃で撃ち倒してしまう。
駆け寄った兵十の目に入ったのは、固めておいてあるくり。全てを悟った兵十は、しかし時すでに遅し。「お前が」と問う兵十に、ごんは力弱くうなずくのみである。火縄銃を取り落とし呆然とする兵十。
という、なんとも悲しい終わり方をするお話でした。
(ちなみに「」の中以外は原作通り書いてないっす。素晴らしい文章なので実際に読んで欲しいな。買わなくても色々なサイトに載ってますよ)
初出は1932(昭和7)年。作者の新美南吉さんは、18歳で「ごん狐」を書いたのです。
(原文から書き直されている部分もあり、研究がなされているようだが、散らかるのでここでは触れない)
私が触れておきたいのは、昨今話題になっている「子どもたちの読解力」についてなんです。
こゆやつ ⇓ 参考に。
『ごんぎつね』の読めない小学生たち。授業見学をして耳を疑った驚きの発言とは?|ルポ 誰が国語力を殺すのか|石井光太 - 幻冬舎plus
学校の先生が出した問題は、
「鍋で何を煮ているか」
を、班分けして生徒たちに考えさせるというもの。
で、その答えが突拍子もない(母を消毒で煮ているとか、火葬場が無いから骨にしているとか)ということで、要は常識がないとか、内容を読み取る力がない、と言っているのである。
私は正直、
「ん?」
と思うのだ。
先生は、時代背景とか、当時の庶民の風俗について教えたのだろうか。と、素朴に思う。
昭和初期は、もはや遠い昔である。ごんぎつねの舞台はさらに古く、江戸時代後期くらいなのではないか。葬式の日に大勢で喪主の家に集まってご飯を食べる事自体、私だって経験したことがない。
ましてや、令和に生きる彼らにとっては、「ごんぎつね」の時代は、もはや原始時代のできごとと変わらないくらい実感に乏しい「ファンタジー」になっているのではないか。
井戸も分からなければ、六地蔵も分からないし、鐘を鳴らすのだってなんのこっちゃだろう。江戸時代人にウォシュレットトイレやスマホやキャッシュレス決済と行ってもなんのこっちゃになるのとある意味同じである。
文中の「何か」に着目した子どもたちが、背景を知らないままに想像力を働かせたら、そういう事になるのは、申し訳ないけど私は少しわかる気がする。現代のマンガやアニメのストーリーは、過去の文学よりも入り組んでいて「何か」と言われたら、それ相応の「何か」があると、そう考えたのも無理はないというか、普通だと思う。
ベースが違いすぎる。だからこそ。
「もずの声がキンキンひびいてい」る里の様子とか、女性が付けた「おはぐろ」と、そうする理由とか、当時のお葬式の仕方と、今との違い、そして、「変わったこと」と、「変わらないこと」を、子どもたちと考えることができたら、昔と今が子どもたちの中でも繋がり、そういった時代を想像する心が(そのうち)芽生えたりするんじゃないかと思うのだ。
読解力がないのも、常識がないのも、親である私たちの教育の仕方の問題であって、子どもたちはむしろ被害者ではないでしょうか。それを、
「やれやれ、最近の若者は」
と紋切り型の批判の「型」に当てはめて語るのは、それこそ今を読み解く力の欠如をさらしていることになるのではないでしょうか。
子どもたちは気付きますよ。彼らは、しっかりとその目で、私たち大人の出方を、立ち居振る舞いを見定めていますよ。もっと気を引き締めないと。
批判めいてしまいすみません。そう、批判と自戒です。子ごもたちを指差し嘆くその指の2本こそ確かに子どもたちに向かっているかもしれないが、残りの3本は自分たちに向かって嘆いているのだ。
私は、この「ごんぎつね」をものすごく久しぶりに読んでみて、当時の山里の風景や暮らしや、兵十とごんの心情の切なさなんかがとてもよく描かれていて、子どもと一緒に考える教材としては、うってつけの童話だと思った。
せっかくこのような名作を教材にしているのだから、大人も子どもも一緒になって、遠い過去から呼びかける「ごんぎつね」の声に耳をすませてみましょうよ。
まぁ、私は子どもの頃にごんぎつねから何か得ていたかと言われても、ああ習ったなぁくらいのうろ覚えで、内容さえすっかり忘れていたんですがね…
でも大人は真剣に取り組まなきゃ。そうありたいと思うのです。
おしまい。
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