宮城県多賀城市、多賀城跡は国から特別史跡の指定を受けた「史跡の国宝」ともいうべき古代の遺跡である!日本三大遺跡の一つと目され、「宮なる城」つまり宮城の地名の由来であるとされる(諸説あり)。
城跡には石碑がつきものだが、多賀城の石碑は他とは一味違う。まずその国宝に指定されている石碑を眺めてみよう。
「つぼのいしぶみ(壷碑)」と呼ばれ歌枕にもなった(とされる)この石碑は762年、奈良時代に建立され、日本三古碑の一つと称されている。保存状態や歴史的価値が非常に高く、令和6(2024)年には重文から国宝に格上げされた。この場所の地下には古代に据え付けたであろう遺構も見つかっているという。

石の語るに、京や各国境までの距離や、多賀城が神亀元(724)年大野朝臣東人により設置されたこと、天平宝字6(762)年藤原恵美朝臣朝獦が修造をしたこと、この石碑がその年の12月1日に建立されたことを伝えている。拓本などを見ると良くわかるけど、とても質朴で基本的な、きれいな文字できざまれていることがわかる。

私は2008年以来の再訪だが、その時は無かったものが今はある。2025年4月に公開された南門である。東北地方支配の政庁であった多賀城の正門にあたる南門。その威風は奈良の都を彷彿とさせる。

往時は古街道からこれを眺めるとさぞかし雅な風体を周囲の「野蛮な人たち」に見せつける効果が絶大であったことだろうと思わせる。
南門の丘から南方向を眺める。すっかり開発されてしまって途切れてしまっている。

開発も歴史の中で複層的である。
田園があり、高速道路があり、人々の営みが積み重なって現代に続いている。知らずに埋め立てたとして、誰がその不可抗力の破壊を責められようか。

南門は構想約30年で奈良朝の技術を可能な限り再現して伝統的な工法で復元されている。築地塀の規模は、東北以外では見られないものであるという。

これは古代から続く弥生人(ヤマト)が縄文人(蝦夷)を北へと追い払う過程で築かれた多賀城の性格を顕している。ここは政庁でもあり、「征夷」の最前線の要塞でもあったからである。

ちょっと面白いなと思ったのは、平べったくないことかな。地形に沿って、道も揺らぐし門も丘の上だ。土木技術の未熟なのか、予算の関係か、あえてそうしているか。なんだか、それが面白いと思った。

多賀城の政庁への門はこの南門をはじめ、東西にもあったという。この門と築地塀を外郭として、東辺が約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860mという少しいびつな四角形を築地塀や柵木列で囲んでいた。

この日は、ちょうど「多賀城あやめまつり」の開催初日で、ちょうどスタッフの方が駐車場に陣取って準備に追われているといった状況だった。
私がここに出現した時間は8時過ぎと早かったため、他のお客さんは地元のお散歩している方とか、混雑を見越して早めに来たらしい家族連れといったくらいで、空いていた。

外郭の南辺の東側へ下ってみた。築地塀の盛土や湿地(池)の様子が再現されていて、往時の様子を想像しやすい表示もある。上の写真の奥に小さく見える土壇には櫓が取り付けられていたという。見張り台としての役割と、荘厳に見せるお飾り、つまり「映え」も狙ったものであった。

あやめは、開催初日という事もあってまだまだ咲き始めの感が強かったが、咲いているお花もあってきれいだった。

パシパシと写真を撮っていると、小さな女の子がふたり。南門の方向へ向かって坂を駆けていくのが見えた。ここは城跡なのだが、丘を走るその雰囲気は、フィヨルドの丘とか「アルプスの少女ハイジ」のようで、とっても牧歌的で、大きなブランコでもあれば最高だったかもしれない。

わが家には元気すぎる男児が2人いるのみなので、女の子のいる家庭ってどんなだろうって、こんな時に想像したりする。「下品なことは言わないよ」とか「おならなんてするわけないべ」って妻に話すんだけど「あんたは変わらなそう」と一笑に付されるのだ。いつも。
さて、多賀城の南門へ戻る。この先「泉塩釜線」なる県道35号が史跡を貫いていて、道路幅の割に存外車通りも多い。ここを気を付けて渡ると、多賀城跡碑が建っていて、道路の為の掘割を登ると、政庁跡とご対面という構図になる。

発掘調査では、メインストリートである南大路の道路幅は8世紀ごろは13m、9世紀ごろは23mもあったという。1車線あたり3~3.5mと決まりがある現代の道路幅で言うと、片側二車線の広さを優に上回る広さである。

南大路には、道路の脇を固める石垣や、排水のための側溝が見つかっており、往時の技術力の高さが伺える。復元にあたっては、8世紀中頃から終わりの頃の状態を再現している。

南大路の東側には「城前官衙(じょうまえかんが)」と呼ばれる、役所や鎮守府の役割を果たしていた区域があったことが分かっている。床張建物は大小7ヶ所が発見されていて、礎石にそって簡素に再現されている。

城前官衙は2022年に整備され公開されている。主屋は同年代の建築物である奈良の法隆寺食堂の構造を参考に柱、梁、組物、小屋組、垂木などの構造を復元した。

官衙主屋の前は広場になっていて、時代が進むと建物の跡もあるという。鎮守府だった時代は兵士が整列したり鍛錬をしたりしたのかもしれない。今は色々な催し事ができそうなたたずまい。

政庁はこの先にある。さすが、高い所にある。
日本は、8世紀後半には今の岩手県の一部と秋田県の半分くらいを、9世紀前半には岩手の半分、秋田の2/3程度を制したようで、日本の古代は、東北までをほぼ手中に収める頃に、中世へと歩みを進めてゆくのである。

日本の古代の終わりは、武士の台頭による。面白いことに、この武士という存在は、中央が忌み嫌った北方の夷たちの影が色濃い。さまざまな要因があるものの、京には天皇が居ながら、実質の政権は地方の幕府が担う・・・
「権威」と「権力」の分離という、世界でも稀すぎるダブルスタンダード(=最高の発明)は、征夷大将軍(=北方の夷を征す将軍)が軍事を担うという建前の下に成立している(当たり前だけど軍事を掌握したものが基本的には権力を得る)のだ。

政庁の南門に至った。
宮城県は、この政庁内にかつて存在した建物の全て、そう、すべてを復元すべく2025年度内に大まかながら整備方針をまとめることとしている。

現在は、礎石の一部は当時の実物を使用しているものの基本的には発掘調査に基づいての平面表示に近いため、雰囲気こそなんとなく想像できるものの、雄大さ、壮大さと言った規模感については、やはりちょっとわかりにくい。

正殿跡をひととおり眺め歩いてみると、思ったよりも狭かったのかな、という印象だった。外郭が広いだけに、コアとなる政庁を歩いた感触は少し意外だった。

西の最前線・大宰府跡も壮大だったけど、こちら東北支配の城塞・多賀城跡もかなり貴重な遺構である。今後復元が進むことによって、他民族だった古代の日本が、列島の中でどうやって一つになって行ったのか、その謎に迫る最前線となり得るのではないか。

どうやら、古代の日本は敵を制したものの、全て亡き者、無き事としたわけではないようだ。融和が進み統一されゆくこの国の、その後も連綿と続く歴史に繋がる多賀城跡。この先の復元が楽しみだ!
つづく👇
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旅のメモ📝
| 🏰多賀城跡 ~メモ~ 🏰 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 私の所要時間 | 46分 | |||
| 住所 | 宮城県多賀城市市川立石3(多賀城跡ガイダンス施設) | |||
| 登城時間 | いつでも(ガイダンス施設は9:00~16:30) | |||
| 休城日 | なし(ガイダンス施設は12/28~1/4休館) | |||
| 入館料 | なし | |||
| 駐車場 | 無料。約20台 | |||
| アクセス | 🚃:JR国府多賀城駅から徒歩15分 🚙:三陸沿岸道路「多賀城IC」から国道45号経由約10分 |
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| ホームページ | 多賀城市観光協会|日本三大史跡、歌枕(家持・西行・芭蕉)の地を巡る | |||
| 👑 多賀城跡の称号 🔱 | ||||
| 日本遺産 | #019 政宗が育んだ“伊達”な文化 | |||
| 国宝 | 多賀城碑〈天平宝字六年十二月一日/〉 | |||
| 国指定特別史跡 | 多賀城跡 附 寺跡 | |||
| 日本三大史跡 | 多賀城跡(宮城県) | |||
| 日本100名城 | (7)多賀城 | |||