しったかぶり!日本紀行

~果てしなき旅景より~

6 山の辺の道⑤ 大和古墳群を巡る。古代日本創成時代の謎に迫る!!

 先の記事で舟渡地蔵前のトイレ案内をして終わったが、ほぼ同じ位置ちょっと手前に、「波多子塚古墳」がある。一見だとわかりにくいが、写真の中心から左にかけてたたずんでいるお椀をひっくり返したような丘が、それだ。

山の辺の道 波多子塚古墳

波多子塚古墳

この辺りから大和古墳群という古墳群の地域に入る。「おおやまと」と読むのが誠にややこしい。「はたごづかこふん」は古墳時代前半に築造された前方後方墳だ。円墳ではない、方墳である。かつて「前方」の形態の細長さが特徴とされたこともあったが、今では畑や果樹園として開墾されたため、本来の墳丘形状から大きく改変されていると考えられている。

 

 

 

発掘調査によると、墳丘裾には葺石と周濠の存在が確認され、外堤上には板石積の小石室も見つかった。周濠からは埴輪のカケラが見つかり、古墳時代の初頭のものとされる。畿内最古の箸墓古墳が築造され、その影響が地方へ伝播し、大和王権が確立していく時期にあたる。

 

 

トイレを済ませ、その先の「舟渡地蔵」に手を合わせる。

昔、村人が池堀をしてると、地蔵の絵が刻まれた2枚の石板が出土した。これを寺へ移そうとすると足腰に痛みが出て、地蔵のタタリかと恐れられたが、見晴らしのいいこの場所に安置すると痛みはすっかり消え、以来腰痛治しのお地蔵さんとして地域の人々に親しまれているという。

山の辺の道 舟渡地蔵

舟渡地蔵 ぽっくり地蔵とも

間を置かずに、萱生環濠集落の濠が見えてくる。実はこの堀は古墳時代後期前葉の「西山塚古墳」の周濠を利用したもので、前期の古墳で占められる大和古墳群にあって、唯一の後期大型前方後円墳である。

山の辺の道 西山塚古墳周濠 萱生環濠集落

西山塚古墳

見た目では丸っこい墳丘であるが、実際は前方部が2段、後円部が3段であったと考えられている。大和古墳群の中では唯一、北向きに前方部が向いている。

 

 

「方位」というのは古代において重要な意味を持っていたと考えられるが、ちょっと調べたくらいで結論が出そうになかったのでひとまず断念して先へ進む。いつか分かる日が来るだろうか。

山の辺の道 西山塚古墳

解らないのままなのは残念だけど・・

古墳の周濠から、クランクの道で離れる。城下町のような敵の侵入に備えた防衛のためのクランクだろうか。民家の立派な門構えがいかにも強そうだ。

山の辺の道 萱生環濠集落

萱生環濠集落のクランク

集落を出ると、猿田彦大神の石碑と石灯籠が建っている。猿田彦(サルタヒコ)は神話の天孫降臨のくだりで瓊瓊杵(ニニギ)尊を道案内したことから、道開きの神として崇められている。民間信仰である道祖神とも結実して交通の安全を願う古道歩きとしてはありがたい神様である。

山の辺の道 猿田彦大神と石灯籠

猿田彦大神と石灯籠

道案内といえば、前の記事でも触れているが山の辺の道には本当に多くの道標が設けられている。東海道、中山道を歩いた時は手持ちのマップを見ながら難儀したものだが、この古道の親切はとても助かる。

山の辺の道 道標

山の辺の道!!

その先、少し山の辺の道を外れ、衾田陵へ向かう。

 

 


大和古墳群の中でも一番の高所に所在する衾田陵「西殿塚古墳」。西殿塚古墳は大和古墳群の中でも最大級の規模を誇り全長約230m、口縁部約145m、前方部約130mと先程の西山塚古墳の全長114m(現状)よりずっと大きい。

山之辺の道 衾田陵近辺

衾田陵近辺

墳丘の段築は東側で3段、西側で4段が認められている。それもそのはずで、この古墳は大王墳(大和王権の大王(おおきみ)・天皇の陵墓)と考えられている。

山の辺の道 衾田陵

真ん中から左の丘陵が衾田陵だ

墳丘へ向かっていくと、正面らしきところが整備され、鳥居が設けられている。

この西殿塚古墳は、「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として宮内庁により第26第継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵と治定されている。

山の辺の道 継体天皇皇后手白香皇女 衾田陵 拝所

継体天皇皇后手白香皇女 衾田陵 拝所

しかしながら築造年代が想定と合わない(6世紀頃)ので手白香皇女の陵墓を先程の西山塚古墳とし、卑弥呼の墓と近年目され、最古級の箸墓古墳(3世紀中~後半)に続いて築造されたと考えられるこの西殿塚古墳(3世紀後半)には卑弥呼の後継者と言われる台与(とよ)が被葬者とする説も唱えられている。

山の辺の道 衾田陵 台与の陵墓とも

歴史ロマンに満ちている

私の感想だが、やはり築造年代もそうだし、何より陵墓の規模が大きいことから、台与か、もしくはそれと同等の大王クラスの人が埋葬されているのが自然だと感じた。偉い人は、より高い所が好きといこともある。

 

 

ここからの景色。

背後の大きな山は、右から葛城山、金剛山だ。盆地にたたずむ小丘陵は手前から耳成山、畝傍山。箸墓古墳も見えているはずだ。

山の辺の道 衾田陵からの眺め

衾田陵からの眺め

今朝、地元で見た生き物はアライグマだったようだが、山の辺の道で出会ったこいつはタヌキだ!居合わせるとじっとこちらを見、警戒し後退っていくのだが、こちらもそっちへ行きたいのでしばらくイタチ、、、もとい狸ごっことなり、やがて路傍の藪の中へと消えて行った。悪かったね、脅かしてしまって。

山の辺の道 衾田陵の道 たぬき

たんたんたぬきの以下自粛。

暖かった旅行中の2日間。山の辺の道には春がはじまっていた。あちこちに咲く白や薄桃色の梅の花。道端には緑が色づき真っ赤なてんとう虫がそろそろと顔を出す。

山の辺の道 春

小さな春

花粉を警戒してマスクを着けて歩き始めたが、それではもったいないと石上神宮の頃にはすでに脱いでしまっていた。この空気や匂いをかいでいないと、山の辺の道は片参りというものだろう。

山の辺の道 長岳寺へ

長岳寺へ

入り組んだ中山集落を抜けると、長岳寺が見えて来た。

大きな将棋のような石碑に、ひときわ大きく下馬!と書かれている。

山の辺の道 長岳寺

下馬し境内へ

境内に足を踏み入れるとすぐに、「陸軍歩兵伍長 勲八等功七級 東田増太郎君之碑」という石碑に出会った。いわれは自分で調べてもAIに調べてもらっても判らなかったが、大日本帝国陸軍の階級であること、小さな花が手向けられていることから、きっとこの地で生まれ、愛された人なのだろうと想像した。

山の辺の道 陸軍歩兵伍長 勲八等功七級 東田増太郎君之碑

人物像は謎

こういう歴史の彼方に名を残さない人が、実はこの国の歴史を守っているのかもしれない(わかる人いたら教えてください)。

山の辺の道 長岳寺境内

長岳寺境内

得に時間の制限は決めてはいなかったが、思っていたよりも山の辺の道歩きの時間が押している。いくらでも歩きたいが日没は必ずやってくるので長岳寺の有料区間には入らず、隣接するトレイルセンターでお昼ご飯を頂くこととした。

 

時刻は正午!歩き始めて、はや2時間半が経過していた。

 

To Be Continued👉

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奈良(東南・北部)→大坂(東南部)→奈良(明日香近辺)の古墳変遷にも注目!

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