大神神社で山の辺の道歩きが終わると、随分と日も傾いていた。
歩き終えた熱量を駆ってそのまま目指しているのは、「箸墓古墳」・「纏向遺跡」だ。
大神神社一の鳥居から約1.3㎞。
「卑弥呼の墓」か!?と言われる古墳である。

さぞかし眼前にズンと開ける事かとイメージしていたが、気付けば道なりに後円部が沿って続き、狭い道路を挟むとそこは住宅地である。これなら近所の古城跡とそう変わらないではないか。ちょっと拍子を抜かれてしまった。

そのうち、視界が開けると、東に三輪山が見えた。線路が走り、ちょうど万葉まほろば線の二両編成が通り過ぎて行った。

古墳は大きく近くからだと全体像が分かりづらいが、少し先へ行くと全景を見渡せるようになった。箸墓古墳は内濠、内堤、さらに外濠を巡らせる壮大な古墳であった。

出土物の炭素年代測定では3世紀中頃~後半(240~260年とも)のものとされ、卑弥呼が亡くなったとされる(魏志倭人伝など)247~248の時代とピタリ一致する。
また、天岩戸神話の原型とも言われる(皆既?)日食も247年と248年に起こっている。

私なぞ歴史の素人なので、こういう結びつきを聞いた時に、太陽神アマテラスが隠れるということは太陽の死、つまり日食であり、そのタイミングでの卑弥呼(ヒミコ・日巫女)の死を示唆しているのでは、と思ってしまう。

要は太陽のシャーマンである巫女がいながら、(皆既?)日食が起こったことにより求心力が低下したとか、日食を予見できなかったことで弑された、といったイメージが湧いてくる。

日本古来の信仰は一神教ではなく八百万の神々、万物に神が宿るというものである。その中でも太陽の神は全ての命の源泉であることから最も重要な神として崇められている。その太陽が皆既なり部分なり、欠けたり姿を消すなどということは不吉でしかないのだ。
なお、箸墓古墳は宮内庁管理となっている。これは第7代孝霊天皇皇女 倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命の墓「大市墓」として治定されているためだ。

彼女は三輪山の神格たる大物主の妻であったが、彼は夜にしか現れず(コラ!)正体を突き止めたところ蛇だったことに驚き、陰部に箸が突き刺さり亡くなったという。「箸墓」とはそういう意味なのだ。彼女もまた巫女的な性質を持っており、ヒミコであるとも考えられている。
以下は完全に私の妄想であるが、色々な状況を踏まえ、真剣に考えてみた2026.3時点の、私の机上の絵空事である。

『146~189年頃の北九州。「魏志倭人伝」や「東夷伝」によると倭国大乱の頃である。この混乱を納めるために「卑弥呼」が「邪馬台国」の勢力の大きさ、卑弥呼自身のカリスマ性(能く衆を惑わす)により諸国首長の話し合いによって共立された。ちなみに158年にも日食が起こっている。これも非常に魅力的なタイミングだ。

「シャーマン的な地位の女性」が「話し合い」により「連合国のトップに立つ」というのは世界史的にも極めて珍しい現象だが、太陽神を女性と崇める日本古来の宗教観、その後の日本人の特性である「和を以て貴しとなす」を考えあわせた時に、バッチリ整合性が取れているように感じる。

その後、連合国はより豊かな土地を求め、北九州(宇佐?)から大和への古代ヤマト民族移動がはじまる(これが日向(宮崎)から始まる「神武東征」に充たるのでは?)。
箸墓古墳が所属する纏向遺跡の起源は180~210年と考えられているから数十年の歳月をかけて大和へ進出したのだ、と考えるとそんなに無茶な感じもしない。神武東征では大苦戦した末に紀伊半島へ迂回して陸路、山道伝いに大和へ到達したらしい記述がある。

ただただ原っぱな纏向遺跡を眺めてみる。最高神たる太陽が、これでもかっていうくらい西日を浴びせてくる。古代ここに暮らした人たちも、同じ太陽を見ていたのだろう。東も西も、山に囲まれた箱庭のような大和盆地で、ヤマト民族は醸成されたのかもしれない。

ヒミコを担いだ政権は大和の湿地帯で稲作をして徐々に安定し、最初期の大和王権を樹立する。247年の夕方に日食が起こり、求心力を失くしたヒミコは政変で憤死。その死のケガレもしくはタタリを恐れた人々は周濠(清らかなケガレを浄化する水)を巡らせ水棺する。つまり箸墓古墳に封印される(大型古墳の登場)。

変わって男の王が立つもたちまち内乱となる。248年の朝に日食が起こり、太陽が復活・台与と呼ばれる、これも女性が再びトップに立ち内乱は治まる』
といったストーリーを私は妄想するのであった(ちなみに水棺については山の辺の道の崇神天皇陵を歩いている時に感じたことを反映している)
素人の二次創作じみていてこっぱずかしいが、自分なりに考えてみたのだ。

纏向遺跡は東西約2㎞、南北約1.5㎞の範囲に広がる大規模集落遺跡である。箸墓古墳をはじめ、大型の前方後円墳が複数存在し、九州はもちろん、関東にいたる広範な地域との交流を示す搬入土器が多く出土している。「邪馬台国」の候補地としては十分な材料がそろっている。

わかっていることは、この地に根を下ろしたヤマトの人々はこの後数百年をかけて徐々に勢力を拡大し、やがて日本列島の大部分を制するようになる。その大王は「天皇」と名乗り、シナ(昔の中国の呼び名)の冊封体制から独立をし独自の道を歩んで行くのだ。
日本の長い歴史の黎明期、私たちのルーツ。いつか真実が解明される日が来るだろうか。そんな日を夢見て、私は巻向を後にするのであった。
To Be Continued👉
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