橿原神宮の北参道の「瑞鶴の碑案内石柱」を目印に左へと折れる。
目指すのは700mほど北にある神武天皇陵だ。

折れてすぐに若桜友苑という広場があり、甲飛十三期 殉國之碑や航空母艦 瑞鶴之碑などがある。イトクの森古墳は古墳時代前期の全長約30mの前方後円墳と簡単な説明があった。

その先、夕刻に歩くにはちょっと暗くて心配になる道をゆくと、県道125号へと一旦出た。県道161との丁字路があり、そのすぐ先に陵へと続く参道の入口があった。

宮内庁のHPを見たところ、
「神武天皇 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」
とあった。御父や御母の名などがあったものの、詳しい云われは書かれていない。

古事記・日本書紀。まとめて記紀の伝承するところによると、初代天皇・神武は日向(ひむか・今の宮崎県)から瀬戸内海を東進し、難波(なにわ・今の大阪)に上陸するが、土地の豪族に苦しめられ苦戦する。

やむなく熊野へと南下し、そこで出会った八咫烏に導かれ、吉野の険しい山々を越え大和へと至る。ここで体勢を整え近隣の豪族たちを制し大和を平定することに成功。紀元前660年1月1日に畝傍山の東南・橿原宮(現在橿原神宮がある場所を推定)で即位した。

聖域に張られた結界の様に、桜川の小さな流れがある。私は今、この記事を書きつつ、本来の神武天皇陵はここから少し南西にある丸山宮址とする説を読んで考え込んでいるが、神武天皇陵へ参った当時はそういったことは考えず、なるほどここが神武天皇陵か。と思い、その暮れなずむ陵墓の静けさに、ただならぬ畏れを抱いていた。

私の砂利を踏みしめて歩く音だけが、この空間に響いている。静かに歩く方の人間だと思っていたが、こうなってしまうとただいたずらに皇祖を叩き起こすような行為をしているような気がしてしまい、ちょっと恐れ入っていた。
陵の正面まで来て、足を止めるとようやく自分の発していた雑音が消えてホッと胸をなでおろした。神武天皇陵と向かい合ってみる。この国の歴史の長さを思う。もはや神話の時代の人である。本当に紀元前660年だとしたら、古墳時代のはじまりが250年頃とされているので、900年以上の月日が流れたことになる。かなり無理があるだろう。

いずれにしても古代日本人は、九州から稲作を持って当時湿地帯が多くを占めていた大和盆地に「降臨」し、次第に勢力を増していき、大和王権を確立していく。
だいぶすっとばすが、そして、こんにちの日本へと繋がっているのだ。

陵墓を眺めた後、右手方面へ行く。割と簡単に県道161へ出た。車が普通に通っている。なんだか、随分深く静寂な場所にいた気がしたが、心がそう思いたがっていたためだったらしい。

御陵入口から500mくらい。7分ほどで「畝傍御陵前駅」に着いた。
ふと振り返ると、ぽっかりと畝傍山がそびえ立っていた。
古代の人はこの山をこよなく愛しただろう。今でさえ、こんなにも神々しいのだ。

一日中歩いて山の辺の道、箸墓古墳・纏向遺跡、そして橿原神宮と神武天皇陵をめぐった。古代と神話は続いている。今日歩いてそれは確信した。もちろん、全部が真実とはゆめ思っていない。

しかし伝承や神話には、私たちの先祖の価値観、思いが詰まっている。それをくみ取ることで、謎の多い日本の歴史の一片だけでも触れることができるのではないか。
そんな事を思いながら、私は奈良へと向かうのであった。
To Be Continued👉
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