小諸という町をちょっとしっかり巡ってみたくて、この信濃家族旅行では小諸グランドキャッスルホテルという、小諸城横付けのシティホテルに宿を取っている。
16時過ぎにチェックインして、夕ご飯まで各々自由時間とした。私はもちろん…

日本100名城・小諸城へと足を運んだ。
チケット売り場で入場券を購入。
17時に閉園となるので焦っていたものの、17時以降は無料で散策ができる。

徴古館、動物園などは観ることはできないが私は城跡しか観ないので一瞬お金払う必要あったかしら、なんて思ってしまったけど、まぁ史跡整備費と思えばいっかな。って感じで城攻めを開始した。

「あの武田信玄の軍師・山本勘助が縄張りをした日本でも唯一の穴城」というのがこの小諸城の一般的な印象であると思うが、どうだろう。
確かに入口にあたる三之門から先は下り坂になっているが、その先は再び上り坂だ。

ただ、この翌朝に北国街道小諸宿を歩いた感触では、北国街道から小諸駅まではずっと下り坂で、この坂は三之門まで続いていた。三之門から先の比高差は多少上り下りはあって本丸や天守台は石垣で高く積み上げられているが、やはり城下よりは低い位置にあることは間違いなさそうだった。

しつこいようだが標高をもう少し国土地理院のwebマップで確認してみる。
※場所によって少し変わるので1m程度の誤差はお許しを。
北国街道小諸宿の西側、旧本陣(問屋場)近辺の標高は664.5m
同じく中央付近の光岳寺(小諸城移築足柄門付近)は684.7m
同じく東側の荒町付近では695mと最も高い。
三の丸入口にあたる大手門は669.2m
小諸駅は665m
二の丸入口にあたる三之門は658.8mと最も低い
二の門跡は662.7m
本丸跡(小諸神社)は663.5m
天守台上は667.1m
天守台下は659m
断崖の下に流れる千曲川は570mほどだ。
つまり小諸城はこういうふうに言えるのではないか。
『北国街道小諸宿の東側から眺める小諸城下は、浅間山連峰の裾野に沿ってそれなりの傾斜で下っていて、断崖に挟まれるように曲輪が設けられている。

三之門付近で最も低く、その先は緩やかな小丘陵を利用して二の丸、本丸そして天守台へ行くにつれ小諸宿西側の本陣と同じくらいの高さになっている。つまり穴城であるが下りっぱなしではなく、二の丸から先はゆるやかな上りの傾斜がある城』

というわけで、ここから先は日本唯一の穴城。疑いなく巡っていきたいと思う。
料金所から先、二の丸の石垣を右手に眺めながら進むと、二之門跡の桝形に至る。
桝形の左手が本丸方面。右手が二の丸である。

現地説明板によると二の丸は、かの第一次上田合戦、第二次上田合戦の前線基地となったという。天然の田切地形に囲まれたこの場所は、両合戦で徳川軍が本陣を構えた場所とされている。いずれも徳川軍は上田勢に手痛い敗北を喫している。

特に第二次上田合戦は徳川軍にとって致命傷になりかねない失策があった。
徳川家康の不在に乗じ豊臣秀頼を擁して挙兵した石田三成を討つべく徳川家康は東海道を、徳川秀忠は中山道を進むが、秀忠は真田昌幸に挑発され上田城責めを強行する。
大群で揉み潰すのは容易いと考えたのだろうか。
しかし真田勢は秀忠より一枚も二枚も上手であった。
小諸で10日間も足止めを食らってしまう。
ついに秀忠は天下分け目の決戦・関ヶ原合戦に間に合わなかった。
という逸話が残っている。その小諸城である。

二の丸の先、番所跡は「いかめしい銃や槍などが立てられていた検問所」と説明されている。今は「東宮駐駕之處」「貞明皇后行啓記念碑」が置かれている。東宮とは後の昭和天皇のことで、大正12(1923)年に訪れている。貞明皇后はその母上(大正天皇の皇后)で昭和24(1949)年に小諸に立ち寄り歌を詠んでいる。
夏の日の ながき日くれし 桑畑に
桑きる音の まだたえぬかな
中仕切門跡は、三層の優美な門だったという。このような中仕切門は他に京の二条城に例があるだけで、小諸城の大きな特徴の一つだったと言える。今は劣化により解体され、古材をほんまち町屋館で保管している。もし城内の建造物を復元するなら、記録も残っている中仕切門で決まりだろう。

その先には右手に北の丸跡、左手に南の丸跡が配されている。いずれも紅葉谷、北谷、木谷といった断崖で隔てられた本丸へ至る橋を守る曲輪だ。攻め手は大変である。

下り坂だった三之門の先から緩いとはいえ上り坂となりさらに二ノ門桝形で勢いを削がれ、背後に二の丸、両側に南北の曲輪に挟まれたこの狭い道を中仕切門をぶち壊して突破しなければならない。

その先の断崖に掛かる黒門橋を焼かれでもしたら、もう士気は最低まで落っこちてしまうだろう。守備隊は路地のような道でグズついた攻め手を両側から蜂の巣にするように打ちひしぐことだろう。これはひとたまりもない。

黒門橋から紅葉谷を見下ろす。
ビックリするくらい一気に断崖で、ここを登ってこようとはイカレていても思わないだろう。

今回の旅では、小諸城は翌朝も巡っているので一まとめで記事にしている。
下の写真は翌朝のものだ。朝日と木漏れ日のまだら模様が気に入っている。
黒門の先に真っ先に見える本丸石垣。右は天守台、左は懐古神社だ。

まずは左折、本丸の懐古神社へ向かう。
その黒門側にはお駕籠台跡がある。
神社の下馬的意味合いなのか、城へ来た貴人の駕籠置き場だったのか?
良くわからない。遺構としてはあまり観たことのない意匠だ。

本丸桝形の石垣には遅咲きの一葉桜がまだ咲いていた。
境内には高校生だろうか、数人の女の子がはしゃぎながら参拝をしていた。
小諸城は明治の廃藩置県の後、荒廃に任せるになっていた。

小諸の元藩士たちはこれを悲しみ、懸命に資金繰りをして三之門から先の城内を買い取ることに成功した。

その時、紅葉ヶ丘に城の鎮守として祀られていた天満宮と火魂社(火之加具土命・荒神様)を本丸跡に懐古神社として祀り、さらに歴代小諸藩主をも合祀しした。

女の子たちは学問の神様である菅原道真の天神様を詣でたのだろうか。しきりに一葉桜をスマホカメラで撮りながら走り去っていった。
境内には山本勘助が常に愛用したという鏡石がある。彼は常にこのつるつるの石に顔を映し自省をしていたという。歴史的根拠は、この城の縄張りが山本勘助であるとする説と同様に薄弱であるが、そういった伝承が生まれる程度には関りがあっても良いのではないかとは思う。

懐古神社から富士見展望台へ向かう。本丸の西南から抜け、馬場を右手に眺めると、ショウゲツと札の付いた桜が咲いていた。
漢字では松月と書く。だいぶ散っていたが、やっと出てきた青空に映える可愛らしい花弁が残っていた。

富士見展望台は城の南西隅にあって、その名の通り富士山が見えるという。
標高657m。富士山は110㎞先。うーむ、見えない。
小諸城は武田信玄の支配時代があり、ライバルの上杉謙信が川中島へ進む際はこの城の狼煙台から甲斐の信玄の元まで2時間余りで伝わったという。

翌朝、良く晴れたしホテルからも富士山は見えていたのでもう一度来てみた。
見晴らしはとても良いものの、富士山は見えそうで見えない。
場所を特定して最大限拡大してみたが、雲が懸かっているのと朝よりも霞んでしまっているようで、やはり見えなかった。

小諸城は戦国真っ盛りの時代、信玄の東信濃支配の前進基地、上野進出の重要拠点として位置づけられていた。
この地に進駐した兵は、遠目に時折見える富士を観て故郷を懐かしんだろうか。
高さ約6mといわれる本丸の石垣を眺めつつ馬場を横切ると、天守台が見えてきた。

3層3階、金箔瓦の天守が建っていたという天守台は、本丸石垣より1mほど高い。
戦国期の威風を伝える野面積みの石垣は、この城のランドマークとして今も人気だ。
北国街道の東側から、この天守は見下げることができたであろうか。

藤村の千曲川旅情の歌石碑の先、水の手展望台を目指す。
小諸城が落城する場合、ここから城主一家は落ち伸びる予定である。

不明門(あかずのもん)と呼ばれるのは、緊急時以外開けないよ、という意味合いと、ここが開かない=落城しない、という言霊の意味も含まれていたかどうか。
展望台に立ち、その眺めを確認してみる。

正面のお山が「袴腰狼煙台」の跡であると考えられている。
先ほど富士見展望台で触れた狼煙台があったとされる場所だ。

城郭の西北端に位置する水の手展望台。千曲川の断崖の上に築かれており、往時は監視台の役割を果たしていたというが、こちら側から攻める気になれない程度には天嶮であり、北側は地獄谷と呼ばれているのも頷ける。まさに後ろ堅固の城である。

天守台下の北側を歩いて黒門方面へ向かう。
武器庫は江戸時代に建てられたもので、数度の移築を経てここに再建されたという。他にも城門や櫓もあるだろうに武器庫を再建しているのが何だか不思議である。

その先に樹齢500年と伝わる欅が鎮座している。樹高27mと言われ、幹まわり6.5m、城内最大の巨木だ。

荒神井戸は「寛保の大洪水」という大災害の後に掘られたという城内唯一の井戸。
ここから本丸へと上がることができる。
そういえばさっき、馬場で天守台上から人が覗いているのが見えた。行ってみよう。

それにしても見事な石垣の城だ。
苔むした感じも良いし、積み具合の良い意味での野暮ったさも本当に素敵である。

城内にも関わらず旅館の山城館がある。
この建物さえすでに城内の風情の一環を担っている。
営業しているのか定かではないが、一泊城主の気分になれそうだ。

そして天守台へ登ってみる。
本丸より1段高くなっているから、石垣の高さは7mほどだと思われる。

天守は豊臣秀吉が天下統一した後のもので、仙石権兵衛秀久が徳川家康に対する西の備えとして築いたとされる。秀吉の子飼いであった権兵衛も結局は関ヶ原役の時には秀忠に城を提供することになるのだが。

天守台に登った。
北方面富士見展望台の方面を眺める。長方形に長い馬場が眼下だ。
本丸石垣上には土塀があったのだろうか。

特に柵なんかないので、子ども連れてきたら恐かったろうな…
石垣から落下、というニュースってあまり聞かない気がするけど…
気を付けないと本当に落ちるよね。

武器庫の方面。
空が晴れて山々が顔を出し始めている。
雪が山頂付近にまだ残っている。この日も新たに積もったかもしれない。

三之門に戻ってきた。三之門は国の重要文化財に指定されている。
江戸時代が始まる前後、慶長~元和期に創建されたが、寛保の大洪水の際に流出、今のものはその後、明和2~3(1765~1766)年に再建されたもので、石垣もこの城では珍しい切込接と近代化されているのも特徴だ

夜にも来てみた。
特にライトアップされているわけではないが、街灯に照らされて割と明るい。
木々の影が浮かび上がりちょっと幻想的であった。

私は小諸城に2009年に来たが、その時に大手門を見逃してしまっている。
それ以来、17年ぶりに小諸に来た。今回は見逃せない。

しなの鉄道をくぐる地下道を歩く。
ここでは妻えみさーも長男かけ8歳も次男くんじ4歳も一緒だ。
寒かったので上着を妻えみさーに貸した。男はやせ我慢も必要なのだ(寒っ)。
妻は仕事の電話があるというので大手門手前でお別れ(上着かえして~)。
こちらもライトアップはされていなかったが街灯とスマホ性能でそこそこ明るい。
時期によっては石垣や三之門、大手門のライトアップイベントがあったりする。

子どもたちは怖がりながらも先へとすすんで行く。
大手門の外へ出ていく格好だ。

人が通るとなんと自動で電気がついた。
そこらの街中ならまだしも、まさか重要文化財の城門に人感センサーが付いてるなんて思わず笑ってしまった。

それにしても大手門、そして石垣の見事なことよ!
この城門は慶長17(1612)年に創建されたと考えられている。
一切の装飾を省いた質実剛健な造りは、豪壮な石垣と相まって一大景観を成している。

今さらながら、小諸城の歴史に少し触れておきたい。
起こりは源平合戦の頃。木曽義仲に仕えた武将・小室太郎光兼が、宇当坂に北国街道よりも北側に位置する館を構えたのがはじまりとされる。

時代が降り、戦国時代になると北国街道沿いに鍋蓋城を大井 光忠が築き、その支城として築かれた乙女城が、小諸城二の丸の位置に当たるという。武田信玄がこの地を支配するとこの地を重視し本格的な縄張りを施した。
この時の設計者が山本勘助(と馬場信房)ではないかと言い伝えられている。このあたりは議論が分かれるところであるが、いずれにしても日本唯一の「穴城」としての産声はこの時にあがったことは間違いない。その後、小諸城は歴史の変遷にめまぐるしく城主を変えることとなる。

武田家滅亡後は織田の支配下となるが、織田信長が本能寺にて散ると、関東甲信の織田勢は大壊乱に陥りこの地を放棄。一旦は徳川の支配下となるものの、豊臣秀吉が天下を統一すると仙石秀久が5万石で入封する。

今に残る小諸城は、仙石秀久とその子・忠政の在城32年間で城郭と城下町を整備したものが原型となっている。大手門は秀久によるもので、三之門は忠政によるものである。
ちなみに小諸宿の荒町にある光岳寺には忠政の建てた(秀久とする場合もあり)足柄門が移築現存している。
江戸時代になっても城主は安定せず、一時は廃藩にさえなったりもしている。
元禄15(1702)年、牧野家が1万5千石で入るとようやく安定を見る。およそ170年の統治を経て、めでたく明治維新を迎える。

標高600mを越え、「高原の城下町」と詩情たっぷりに呼ばれる小諸。
そのお城は戦国期の雰囲気をふんだんに伝え、広くはないものの巡りごたえのある縄張りとなっている。浅間山の火山灰と日本一長い千曲川の浸食が作り上げた「田切地形」を惜しむことなく活用した唯一無二の「穴城・小諸城」ぜひ足を運んでみてね!!
To Be Continued👉
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