福井県福井市。町なかに城が埋まっているって聞いたら信じるだろうか。
この国の県庁所在地は、藩政期は藩庁所在地だった場合が多く、さらにその前身は戦国武将が治めた城下町だったりする。

福井の場合、北ノ庄城がそれにあたる。
大元は南北朝時代にそれらしい城砦が築かれていたようだが、北ノ庄城ときいて通りが良いのは、やはり「瓶割り」柴田勝家であろう。

北ノ庄城があったあたりは、いまは福井駅の南側から西へ向けた通り「サンロード北ノ庄」が整備されていて、ガレリア元町、新栄商店街といった商店街と接続している。

送電線が無く視界のよい道を歩いていると、ビルとビルとの間に突然鳥居が現れる。
スマホでもいじっていたら気が付かないかもしれない。

鳥居をくぐり、こじゃれたお店が何件か並ぶ路地・・・この場合参道というか・・・を進むと、右手にまた鳥居がある。いずれも、柴田神社と扁額が掲げられている。
実は、ここへ来るのは3回目だ。
2008、2015年。この時のブログは下段のリンクを参照されたい。
柴田神社は、明治23(1890)年に旧藩主の松平春嶽や旧藩士、この地に住む人々により建立された。それまでは石祠に丁重に祀られて福井藩に保護されていたという。

境内へと進む。
近年、急速にパワースポットとして注目を集めている柴田神社。
ご利益はズバリ「美(モテ)祈願」!

「絆の宮」とも言われる柴田神社には、織田信長の家臣筆頭格であった柴田勝家と、織田信長の妹で絶世の美女である勝家の妻・市が祀られている。
また境内社として平成10(1998)年に「三姉妹神社」が創建された。戦国時代末期に波乱の人生を歩んだ茶々、初、江を祀っている。

境内には柴田勝家、お市の方、茶々、初、江の像があるのだが、建立時期などの違いによって少しずつ離れていたり向きが違ったりしている。鬼柴田の向きが違うのがなんだか少し寂しい。

さて、ここは北ノ庄城跡地と推定されている場所。
非情に短命かつ悲劇の城である。
西暦で示すと、1575~1583ということになる。

勝家が築城した城郭の石垣が発掘されている。
本来高々と積まれていた上の写真の石垣も、結城秀康の福井城の築城に際して取り除かれ、今はこうして痕跡だけが遺っている。同様に、堀の遺構も見つかっている。

「北の庄城 お市の方 殉難将士 慰霊碑」は、かつてこの地に9重の壮大な天守を頂きその規模は織田信長の安土城天主をさえ凌ぐと言われた北ノ庄城の跡地であることを静かに伝えている。

柴田勝家について少し考えたい。
まず、いくつかある二つ名が彼の人となりを表している。
戦ではいつでも先陣を切った。その勇猛果敢な戦いぶりを恐れ、称賛し、敵味方問わず「かかれ柴田」「鬼柴田」と呼んだ。
また困難な籠城戦の最中、貴重な水の入った瓶をカチ割り、あえて退路を断ち覚悟を示したことにより「瓶割り柴田」とも呼ばれる。いずれも武人としての心意気を顕したカッチョイイ二つ名だ。

大河ドラマや小説などではどうしても秀吉や家康にスポットが当たるため
”時代遅れで傲岸不遜なおっさん”といった印象で描かれてしまいがちだが、どうだろう。

尾張で織田信長が「うつけ」と呼ばれていた頃、勝家もはじめ敵対するが擁立した織田信行が敗れると信長に忠誠を誓う。以後、織田家の筆頭家老、また数々の戦場で武功を上げ、信長の信頼も篤かったという。

信長が天下統一へ本格的に動き始めた天正期に入ると、柴田勝家は北陸方面の総帥としてここ北ノ庄を統治することに。この時代の北陸は、一向一揆や上杉謙信といった戦国時代を代表する強敵が跋扈していた。
勝家は越前一向一揆を鎮圧するも越前を狙う上杉謙信には手取川で手痛い敗戦を食う。
しかし謙信が病没すると加賀一向一揆も制圧し能登や越中までをもぼぼ手中に収めた。
この間、約5年である。

しかし本能寺で織田信長が変死すると、事態は一気に旋回する。
信長を討った明智光秀を電光石火で羽柴秀吉が討ち、天下の形勢は秀吉が握ることに。

この時期の秀吉の政治手腕は、多分歴史的といっても過言ではないくらいバケモノじみていて、まともに太刀打ちできたのは徳川家康くらいだったし、家康さえこの時勢には引くより他なかった。無敵無双状態である。

勝家はこれを良しとしなかった。
秀吉との対立を決定的なものとし、ついに勃発したのが賤ヶ岳合戦である。
膠着した戦線を崩したのは、勝家が信頼し、秀吉が「友」と呼んだ前田利家だった。
彼が戦線を離脱するという間接的な秀吉への肩入れによって柴田軍は総崩れに。

勝家は北ノ庄城に籠るが、ついにお市の方を刺殺、自身も自害して露となった。
その際、天守最上階から「おれの死にざまを見て後学にしろ」と叫び十字切りという正式な作法の切腹で見事な最期を遂げたという。

勝家は、繰りごとは言わなかったようだ。
裏切った利家に対して一切の恨み言も無かったという。
最後まで付いてきた家臣には生き残るよう促し、これまでの忠誠に報いることができない無念を語ったという。

見事な戦国男児である!
柴田勝家こそ、かくあるべき武人!
戦国武将の完成形と言えるのではないか。
ただ、時代の趨勢に勝てなかったというだけに過ぎない。
「越前北ノ庄城址」と刻まれた城址碑は、日本画家の平山郁夫(1930~2009)による揮毫だ。平山氏は、なんと柴田勝家のはるかなる末裔であり、平成16(2004)年の芝田公園竣工に合わせ設置された。

その、柴田勝家の越前北ノ庄城の痕跡を、私は雨傘を閉じ、しばし濡れながら五感でまさぐっている。じめじめしているが、さわやかな気分で雨音が快く感じる。

遺構は埋もれ、限りなく少ないが、手あつく保存されているように思える。
北ノ庄城は、その後に築城される福井城へと半ば吸収されている。
出土している石垣にしばしば天下普請の刻印が見られるのは、多分そのためだ。

日向門と言われている部分が、旧北ノ庄城の天守があった近辺ではないかとされていて、「土居」や「外堀」の遺構が見つかっている。福井城については、別の稿に譲る。

最後に、勝家と市の辞世を引用しこの稿を閉じたいと思う。
柴田勝家 辞世
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
お市の方 辞世
さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそふ ほととぎすかな
To Be Continued👉
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