関ヶ原合戦で徳川家康の東軍が石田三成率いる西軍を降すと、越前一国は家康次男の結城秀康が入封した。このとき67万石である。
今回は、福井県福井市ど真ん中。福井城をめぐっていきたい。
前回、北ノ庄城をめぐり、その跡は福井城の日向門跡近辺であることが分かった。そのまま福井城の本丸を目指しているが、町なかを歩いていると藩政時代の痕跡を所どころに見つけることができる。

歴史のみち「ガレリア元町商店街」を歩いて福井駅方面を目指すと、百間堀跡の表示や幕末に活躍した松平春嶽の懐刀・橋本左内についての案内があった。他にも柴田勝家、結城秀康といった福井にゆかりのある人々を紹介している。
百間堀は福井城の大きな特徴と言ってよく、実際は55間(約100m)の幅があり、大河のような水堀であったことが分かっている。
「なか卯」と「福井城旧景」が同居する風景は城下町・福井ならではだろう。

中央大通りに出ると、この近辺で出土した石材を使用して再現した百間堀の展示があった。
百間堀は、城下東に存在した吉野川を掘削し水堀とした大規模なもので、足羽川や九頭竜川という、ただでさえ強固な天然の外堀を有するこの城に、さらに水利による強みを与え、左右非対称の美をもたらしている。

残念ながら今は埋められてしまっていて、この再現された石積みと道路上にはめ込まれた磁器製のタイルで、その規模を感じることが精いっぱいである(ごめんタイルの写真は無いの(;^_^)

大通りから福井放送会館の角を曲がり、福井城の主郭を目指す。
明新館跡は、福井藩主で「幕末の四賢侯」と称された松平春嶽が建てた藩校である。
明新館(元は明道館)校長(学監心得)を橋本左内に任じ、欧米の学問を採り入れるなど開明的な学校であったという。

松平春嶽は幕末の風雲児・坂本龍馬の才覚を見抜き、勝海舟に紹介状を書くなど頼りがいのある理解者であった。
その先が本丸水堀の南西隅に出るが、そっとたたずんでいる大手観音をみつけた。
昭和20(1945)年7月19日の夜半。福井大空襲の日である。

観音像の傍らの碑文には、福井郵便局員23名の殉職、遺族および職員有志による観音像の建立と移転、戦後50年(平成7)にあたり観音堂を建て、安置したこと。そして殉職者の冥福と恒久平和への祈り、平和の喜びが刻まれている。

さて、いよいよ本格的に福井城である。
しかしながら本丸南西・・・いうところの坤(ひつじさる)の方面は現在、その名そのままの「坤櫓」復元事業により工事中であった。

うーむ。見事な「犬走り」だ。
犬走りとは、石垣の下部にある人や犬が走ることができる程度の通路みたいな部分のことで、石垣そのものの補強や、まんま通路だったり、個人的にはその時代にちょっと流行したファッションでもあったような気もしている。

ここへ来るのは3度目だったと思うが、水が湛えられていたからか気が付かなかった。
犬走りといったら、戦国から江戸初期に随一の築城名人だった藤堂高虎(津城、今治城など)の城によく見られたと記憶しているが、福井城については徳川家康自らが本丸や二の丸といった主要部分の縄張りをしたとされている。

家康と高虎は昵懇であり、築城術を擦り合わせたことも十分考えられる。
いずれにせよ、福井城の犬走りを観れたのはこの旅の城めぐりの収穫であった。
坤櫓および本丸西側土塀は、令和11(2029)年の完成を目指し復元工事が進行中である。坤櫓の高さは16mで、往時の規模が再現される。

福井城は、加賀の前田家を睨む重要な位置づけの城で、大名も将軍家の親戚であった。
坤櫓はその家格に恥じない規模のもので、寛文9(1669)年の大火で天守が焼失すると、巽櫓と共に福井城のシンボルとして鎮座していた。

16mという規模は、日本に散らばって現存している12の天守のうち、弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、彦根城、宇和島城の天守よりも高い。
要するに、そこらの大名の天守よりも立派なものだったのだ。

イヌとヒツジとサルに気をとられている間に、平成20年に復元された御廊下橋、平成30年に復元された山里口御門を通り過ぎてしまった。

平成31(2018)年に竣工したての山里口御門を観に来たことがあって、その時かなりしっかり福井城はめぐったのでその写真も交えようかと思ったけど、今回はざんざん振りの雨の城めぐりにとどめようと思う。

2029年に坤櫓が完成した暁には、北陸新幹線に乗って再訪したいと思う。
金沢まわりで大迂回なのがちょっと癪だから車かもしれないけど苦笑
福井県の足羽山で採取される「福井ブルー」笏谷石を存分に使った山里口御門をくぐり、本丸へと侵入。せっかくなので山里口御門(やまざとぐちごもん・何度も言うから舌嚙みそう)の公開されている内部を観てみる。

福井城の本丸へ来た。県庁を背中に、天守台跡を一望してみる。
一段高くなったその先に、さらにもう一段(見えていない)高くなり、そこに石垣を含めると37mにも及ぶ超高層の独立式望楼型5層6階の天守がそびえていた。

現在の福井の政庁である福井県庁が45mであることを考えると、その規模感が多少のリアリティをもって想像できるのではなかろうか。
天守台への石段を登ってみる。といっても3回目なのだが。
左手が天守台で、右手は構想のみで実際は建たなかった「控天守台」である。

「福井」の名の由来となった説がある「福の井」は、平成29(2017)年に復元された。
屋根や釣瓶は修景施設として新たに設置されたが、井戸自体は昭和23(1948)年に起きた福井地震で大きくゆがみ、作り変えられた姿から、石積みや井戸枠を元の大きさに復した。

さらには現在の地盤より60㎝下で見つかった笏谷石の石敷きや排水溝まで復元する周到ぶりである。

北ノ庄という名は、三代藩主・松平忠昌が「北は敗北に通ず」ことから縁起の良い「福居」と改名し、江戸中期に「福井」と呼ばれるようになったと現地案内板は教えてくれている。ニュアンスとしては「福の井」由来説ではないようなのだ。

福井城の天守台、その礎石でケンケンパをしつつ、私は思うのであった。
福居、また福井と名乗るにあたり、この名井・福の井を意識しなかったよ。
なんてことが常識としてあり得るだろうか。

城にとって井戸(水利)は命綱であり、その名がいかにもありがたい「福の井」なのである。福井(福居)が福の井の原型、少なくとも名づけの意識下にない状況を想像できない。福井は、やはり福の井が由来で良いのではなかろうか。

現地の説にケチをつけるつもりはなく、私はそう思うと書かせてもらいたいのです。
怒らないでね!

控天守台に櫓が建たなかったことは先に触れた。
大天守に連結して侍る小天守になり損ね、天守台だけが風雪を過ごしたが、福井地震によって台座たる石垣は半ば崩壊し、自然災害の凄まじさと遺構の永遠でないことを雄弁に語っている。

控天守台の東側の階段から本丸へと降りると、本丸堀の北側には北不明御門跡方面へずらりと見事な雁木が姿を現した。
私は城郭の遺構として雁木がけっこう好きで、萩城のいい意味で古くさい武骨な雁木が気に入っているが、この福井城の整った雁木もまた素晴らしい。
本丸をお堀越しに敵兵が囲んだ場合、ここを波を蹴立てるように兵が駆け登り、一斉に弓鉄砲を構え、機能美としか言いようのない美しさで敵兵へ射撃を浴びせかけるのだ。

甲冑を着た福井藩兵の横並び斉射は「快っ感!!」でないはずがない。
薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」に匹敵するだろう。
そのまま搦手・北不明門から本丸外へ出ようとも考えたが、県庁正面に建つ結城秀康公の像を観ようと思いなおし、県庁と県議会を横切った。

結城秀康。
この人ほど「戦国時代」という数奇な時代に揉まれた人も珍しいのではないか。
徳川家康の次男として生まれたが側室の子であったため幼少期から冷遇された。幼名の「於義伊(おぎい)」は、川魚「ギギ」のような面相であったためと、ちょっと投げやりな名づけをされたらしい。

やがて中央で政権を取りつつあった羽柴秀吉の養子となり「羽柴秀康」と名乗るが、秀吉に実施が生まれると北関東の有力な豪族・結城氏へ養子へ出され、以後は「結城秀康」の名が定着する。
藩主として松平姓へ復した(徳川と名乗りたがった節もある)とする説もあるが確かではない。
人物としては一級だったらしく、武勇や心根の爽やかさを示すエピソードがいくつも伝えられている。
ところで、瓦御門跡の東側の石垣であるが、テトリスみたいな積み方ではないか。
近世城郭のテッパン・切込接ではあるが定型ではない。遊び心だろうか。

瓦御門跡西側の石垣も観てみる。しかしテトリス積みではない。
時代も若干古いように感じる。無念だがいわれがよくわからない。

瓦御門跡は、福井城の正門であり、城内でも格式の高い城門であった。
今はほとんど見る影もないが、今でも県庁への正門としての役割を果たしている。
ここから福井駅までは徒歩4分程度である。

福井県庁を見上げてみる。
日本全国六十余州。現在47都道府県。県庁が城郭の本丸に構えているのは空前絶後なのではないか。しかも福井県警察本部も構えている。難攻不落・無敵の県庁である!!

昭和8(1933)年には、帝国陸軍が坂井郡で大規模軍事演習を行うにあたり、大元帥として昭和天皇が福井を演習や天皇としての視察の拠点とした。
それを記念して「大本営行在所記念碑」が建立され、こんにちも県庁域内になおぽつねんと存在している。

再び北不明門跡へ戻る。桝形の石垣(だと思う)を眺める。
打込接の布積み。きれいに整っている。
右側は規則正しく段々になっているが、崩れたのだろうか。

復元図を突き合わせてみると、艮櫓の東側の辻褄が合わない。うーむ。。。
北不明門跡西側の石垣。
福井城では石垣上部は細い天端石で整えられている。

もうちょっと近づいてみてみよう。
少しだけ、遊び心かこだわりか…そういう気分が感じられるのは私だけ?

北不明門跡から土橋へ歩く。そのまままっすぐ行くと県道114号だ。
艮櫓の堀側の石垣。少し孕み(経年による外側への張り出し・放置すると崩落する可能性がある)があるのが心配だ。

土橋から天守台方面を眺めてみる。江戸初期なら壮大な天守がそびえていたはずだ。
水堀から天守まで込みで写真を撮る場合、この距離だと横の画角では入りきらなかったのではないか。

土橋から出て、土橋と艮櫓の石垣を眺める。
「福井城本丸復元図」とどうしても合わない。
イメージ力のせいだろうか苦笑

VRで見られるということでアプリを入れてみたのだが、うまく起動できなかった。
この北東部分は隅欠になっているのだろうか。
他の方角隅と比べ少し複雑に思える。

南東へ来た。坤櫓とならび壮麗な巽櫓が建っていた場所だ。
ここでも犬走りが見られる。今は全体的に水が少ないのか、元々見えていたのに前来た時は気が付かなかったのか。まだまだ課題が残っているなぁ。

このまま巽の方角から福井城を離脱した。
5時半から歩き始めて、すでに7時をまわっている。
妻や子供たちが起きるころだ。お腹も空いてきたぞ!
次は坤櫓が復元された頃(2029年)かなぁ。
その時は今回の謎も含めてまたじっくりと巡らねばなりますまいな。
To Be Continued👉
「しったかぶり!日本紀行」応援してね!
旅のメモ📝
過去ブログ「しったかぶりの日本歴史旅」で紹介した時の記事でっす!↓↓