続日本100名城 No.126 石垣山城
2025.6.6(過去2009.1.20)
休職中の登城。
畑沿いの長い坂を登ると、この地へ集結した武将たちの表示があり、やがて整備された駐車場へと至る。

いきなり武骨でコゲ茶色みのある石垣が眼前に現れる。
この城は豊臣秀吉が小田原攻めの際に田舎侍どもを驚かすためにごく短期間で築城したと伝わることから「石垣山一夜城」とも呼ばれているが、現代人も存分に驚くと良い。

秀吉の城は「肥前名護屋城」も行ったが、スケールの大きさを感じさせる何かがある。
彼の先輩の信長の城である「安土城」も雰囲気が凄かったが、秀吉の魅せ方はそれ以上かもしれない。

秀吉の弟子である加藤清正の「熊本城」は、秀吉の系譜と言える気がする。
いずれにしても関東で秀吉の城を観ることができるのはマンモスラッキーだ。
では参る。大手とされる「旧城道東登口」から攻城をはじめる。

天下をほぼ手中に収めた豊臣秀吉が北条氏の主城・小田原城を約22万の軍勢で攻囲したのが天正18(1590)年4月3日。それから7月5日に開城・降伏するまで約3ヶ月。

付城にしてはよくもまぁここまで整備したものだと感心することしきりの石垣の多さである。関東でこれほど石垣を使用した例はこの石垣山城以前では絶無である。

私はこの城は2009年ぶりだが、その時も今回も同じように石垣について驚いている。
馬屋曲輪(二の丸)石垣は、比較的築城当時の姿が遺っているという。

その先、左手が二の丸跡だがまっすぐ進むと櫓台跡の石柱がぽつんと小さな丘の上に建っている。石垣ずくめのこの城では珍しく緑の芝生なのでごろんと寝転がりたいくらいだけど、往時はどうだったのだろうか。

さらに進むと石垣山城の見所の一つ、井戸曲輪である。
曲輪の上には展望場が整備されている。

小田原城を含め、小田原の町の大部分が一望できる。
相模湾もバッチリだ。

GoogleMapでは混同しているが、この先にある展望台からの景色は、相模湾側ではないので注意が必要だ。

ここからの眺望は箱根登山鉄道 入生田駅の方面になる
山で言うと明神ヶ岳や塔ノ峰といった箱根や足柄の山が見えている。
私にはどれがどれだかわからない。

展望台から少し戻る、さきほどの井戸曲輪へと降りてみる。
北口へと続く城道が通っていた。

最初に来た時は、この井戸の規模に度肝を抜かれたものだ。
秀吉の戦は墨俣にしても備中高松にしても土木事業である場合が多いが、ここもそうだったのであろう。

井戸曲輪は二の丸の北東側にあって、もとは沢のような地形を利用して北と東を石垣、南と西を石塁の壁で囲むようにして造営されている。

井戸の場所は二の丸から25mも低く、今でも水が湧き出ているのを眺められる。
往時はどうだったろう。もう少し多く水が湛えられていたのであろうか。

往時は二の丸から階段とスロープで降りる構造になっていたという。
その螺旋状の形状から「さざゑの井戸」または「淀君化粧井戸」などと呼ばれた。

井戸から這い出て二の丸(馬屋曲輪)へ戻ってきた。
天正18(1590)年に豊臣秀吉が北条の小田原を攻囲した際に総石垣の城を築き、もともと松山とか笠懸山と呼ばれていたこの山は石垣山と呼ばれるようになった。

秀吉の英雄的な逸話から「一夜城」と称されるこの城であるが、実際はどうだったかな、と思考してみる。
彼は人を驚かすのが好きで、その効果の絶大さを承知していたであろうから、一夜で石垣の要塞が出現したというような演出をしたことは十二分にあり得ると思う。

「面白い」は、彼の政治として、確実に重要視された戦略だったと考えられそうだ。
脂の乗り切った知略が向かう先は大向こう。天下なのである。

神話的な事業をしてみたい、という意欲は備中高松城、大坂、肥前名護屋といった彼の興した壮大な事業から、それを見て取ることができるし、この石垣山城もまた同じだろう。

本丸登口へと歩みを進める。
どこにでも打ち捨てられたような石がゴロゴロと落ちている。

登口の坂から二の丸を眺望できた。
二の丸は、伝承によると馬屋が置かれ、本丸の近くには馬洗い場と呼ばれた湧水もあったという。

本丸と並び城内で最も広い部類の曲輪で、現状最も広々としてきれいに整備されていて、のんびり心地よい空間となっている。

「枡形の鍵折れ」と表示された苔むした金属板を横目に観ながら進むと、木々が生い茂った本丸に到達する。

本丸からは、小田原城下が広がる足柄平野を一望することができる。
豊臣秀吉は水陸両方から史上空前の大軍で小田原城を包囲し、長期線を辞さない構えを見せる。

自身の愛妾である淀殿を呼び寄せ、参陣する諸将にも女房衆を召し寄せるように推奨した。さらには千利休らの茶人、芸能の者を呼び興行させるなど、包囲戦の戦意を落とさせないような差配をしている。

生活ごと引っ越してくるようなイメージだったであろうか。
ところで、ここに一つの逸話が残っている。
ある日、秀吉は小田原城下を眺める場所へ徳川家康を呼んだという。

秀吉は唐突に小便をし始めた。家康は戸惑いながらも同様に小便をするしかなかった、もしくは政治的にここは同調しておくべきと考えただろうか。
これが「関東の連れ小便」端折って言うと「連れション」の語源になったという。

おしっこをしながら彼らが話したことは、端的に言うと徳川家康のお引越し、関東への移封であった。それまで故郷の三河をはじめ、駿河、遠江、甲斐、信濃の5ヶ国という大領を持っていた家康に、関八州を与えるというものであった。

関八州とは、武蔵、常陸、上野、下野、上総、下総、相模、安房で、元の5ヶ国で概ね150万石と言われているが、この8ヶ国は250万石にも及んだという。秀吉自身の直轄地(蔵入地)220万石さえ超える凄まじいものであった。
「どうだね、江戸のあたりに城を‥」と言われて断れるはずもない。相手はほぼ天下を手中に収めたこの時代の勝利者である。このあたりの心境のニュアンスは家康という人は特につかみにくい。故郷を追われる辛さを思ったか、さらなる領地の獲得に心躍ったか。その両方だったか・・

天守台跡はすっかり崩れてしまい少し高く土壇が積まれている程度に見える。
石垣山でも最も高い標高262mくらいの場所にある。ここに3層とも5層とも言われる天守が建っていたというが、資料には乏しい。小田原に見せつけるための石垣山城、というコンセプトから、この天守の位置が小田原勢から見えにくいのでは?とも言われている。

私が歩いてみた感じだが、天守台跡に登って本丸を眺めると、木々の向こうに城下や相模湾を垣間見ることができた。ある程度の高さがあれば城下はよく見えたろうし、小田原勢からも見えたのではないだろうか。

伊達政宗が見破った木組みに張り紙をした白壁の様に、もし天守がハリボテのような代物だったら、多少奥行きを持たせて建ておいた方がそれっぽく見えたんじゃないかな、っていうようなことを思った。

気が付いたら天守台の裏手の坂を転げ落ちるように降っていた。
本丸、西曲輪跡の土台にも、しっかり石垣が使われていたことが分り、少なくとも総石垣の名に恥じないふんだんな石垣の使いっぷりだ。

最初、南曲輪の東側の石垣を眺めながら城道東登道から二の丸へと向かったが、今は南曲輪の南側を眺めている。

もう一度、二の丸へ上がり、南側から西曲輪を目指してみる。
所々アジサイが咲いていて、青い花のアクセントが目に優しい。

アジサイだらけも困るから、こうちょこんちょこんと咲いているのが可憐である。
石垣ばかりに目が行きがちだけど、ハイク気分で歩くのも十分に楽しいと思う。

太閤秀吉のひょうたんがあしらわれた行き先案内を見る。
右が本丸、先が西曲輪となっている。
先ほど本丸は行ったので、西曲輪を目指す(天守台から曲輪下を降りちゃったので)。

南曲輪跡を眺めつつ先へと進む。
崩れた石垣が、豊臣秀吉という人の栄枯盛衰そのものを表しているようだ。

石垣山城の城郭規模は、およそ58,000㎡、東京ドームの1.2倍という広さだという。
小田原城の付城でもあり、そこまで広大ではないが、それ以上に規模感を感じさせるのは、秀吉という人の「大きさ」かもしれない。

西曲輪跡に着いた。
西曲輪、南曲輪、本城曲輪(本丸)の一部は、2023年に国史跡に追加指定されている。

西曲輪の端まで歩いてみる。
二の丸ほど広大ではないが、天守台や本丸の西側を真綿でくるみ守るような形状をしている。

天守台の下の石垣を眺めてみる。
それにしても盛大な崩れっぷりである。
ここまでしっちゃかめっちゃかに崩れている石垣を、他の城でもあまり見ない。
こういうことでさえ、秀吉らしいな。
と思ってしまうのは単にそう思いたいだけだろうか?

南曲輪へ戻った。
ここは石垣山城への入口を見張る曲輪で、広さは西曲輪ほどではないが櫓台が置かれるなどの防衛機能が備わっていた。

本丸からの眺望も良かったけど、南曲輪から眺める相模湾は市街地こそ見えないが、海の色合いが爽やかで中々よかった。
城郭として考えるとやはりコンパクトではある。砦のめちゃでかいやつ、とでも思った方が、この城を理解するのにいいかもしれない。

竪堀状の堀切が東曲輪上段と南曲輪を分断している。
ここを降りると最初の東登口(大手)だ。
これにて城攻めはお終い。たくさん歩いた。

駐車場の端には、江戸時代初期に江戸城修築のための石材が置かれていた。
石垣山城の西側斜面の一帯が江戸城の石垣用石材を調達していた「石切場」だったということで、見学のため一部ここに移設したようだ。

坂の途中にはいわれのよくわからない「土塀見本」がある。
「土塀見本 日本造園連神奈川県支部 H28.1月吉日」とのみ書かれていた木造の表示があったようだが、それも朽ちていた。

唐突過ぎてわからない。
石積みは虎口なのだろうか。
にしては狭い気がする。うーむ。

最後の最後に謎を残し、石垣山城の探索は終わるのであった。
急ぎ帰路へ。次男くんじ3歳を保育園へ迎えに行かねばならない。
おしまい
最 後まで読んでいただきありがとうございます📚
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推参不躾ではござりまするが、どうぞお引き立てのほどお願い申します(`・ω・´)ゞ
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