しったかぶり!日本紀行

~果てしなき旅景より~

2 備中高梁の町を歩く!江戸時代の風情が残る紺屋川美観地区&石火矢町ふるさと村

 岡山駅の西口のバジェットレンタカーで車を借りたのが9:30頃。

それから約1時間。

備中高梁にやってきた。

国盗り合戦 備中松山城の空を統一

位置ゲーの大家・国盗り合戦 備中松山城の空を統一

高梁市は2012年に父と来て備中松山城へ登城したことがある。

その時、城の背後にある松山城の前身にあたる古城・大松山城まで行くことができなかったため、今回はいっそ城下も含めて麓から登ってみようと思い立ったのだ。

 

 

高梁市内には無料、有料の駐車場が点在しているため目的に応じて停めることができるが、今回私が停めさせてもらったのは高梁市役所の駐車場。

 

 

 

 

開庁日については市役所へ用のない方の駐車はお断りしているが、閉庁日(土日祝・年末年始)は開放してくれているので、利用させてもらいました。

高梁市役所

高梁市役所

さて、土地勘はないもののGoogleMapを見るに、北方面が備中松山城およびその城下町ということになる。備中高梁駅も行きたいけどそちらはお城まで行って帰って元気があったらにしよう。

備中高梁 町から臥牛山を眺める

市役所から約1.4㎞。徒歩約18分。

なにせ・・・……っ!!存外遠いっ!

高梁市街から備中松山城天守を眺める

しかしその視界に天守を捉えてテンションアップ

町の看板が「よう見えるで!」と教えてくれているのだが、けっこう遠くない?

こ れ は な め て い た か も し れ な い ! !

備中高梁市街 藤本診療所駐車場付近から臥牛山(備中松山城)

備中高梁市街 藤本診療所駐車場付近

では、歩いてみよう。

まずはまっすぐだ。白壁の土蔵のような建物が出迎えてくれる。

云われはわからない。

備中高梁の町を歩く

白壁となまこ壁の土蔵

歩き始めて7分くらいで「高梁市郷土資料館」のモダンな建屋が見えてきた。

旧高梁尋常高等小学校の本館で、市の重要文化財に指定されている。

高梁市郷土資料館 外観

高梁市郷土資料館

資料館の手前が中央公園として広場になっていて、公園内のトイレを借りた。

地味にけっこうトイレ行きたかったので大助かりだ。

備中高梁の町を歩く 備中松山城天守が乗る表示板

天守が乗っかった道路表示板!珍し(´ω`)

さらに進むと紺屋川美観地区と呼ばれる地域に出る。

この地区の西側を流れる高梁川に注ぐ紺屋(こうや)川は、備中松山城の外堀の役割を果たしていた。

紺屋川美観地区 紺屋川

紺屋川美観地区...風流なネーミングだ。

市立高梁幼稚園は、かつての藩校・有終館跡に建っている。

時の藩主・板倉勝澄が延享3(1736)年に別の場所に学問所を作ったのがはじまりで、火災などがあり当地へ移設し存続した。有終館と名付けられたのは寛政10(1791)年頃という。

備中高梁 紺屋川美観地区 有終館跡

山田方谷という人が校長になり充実した。

高梁基督教会堂は、岡山県内に現存する最古の教会堂で、明治22(1889)年の建設で、県史跡に指定されている。紺屋川の雰囲気によく馴染み、地区の個性に特徴を付与している。

備中高梁 高梁基督教会堂

国内のプロテスタントとして同志社のチャペルに次ぐ古さ

カン カン カン

と踏切が閉まる音が聞こえた。

 

 

 

 

チャペルを眺めていた私が急ぎ線路の方向へ向かうと、ちょうど「特急やくも」が通り過ぎて行った。特急やくもは岡山を発し倉敷や備中高梁、米子や松江を経て出雲市駅へ至る。

備中高梁 紺屋町踏切 特急やくも

紺屋町踏切を通る特急やくも

高梁幼稚園を横目に観つつまっすぐ歩くと突き当り右手へ。

旧来の町割りが残っているため道は基本的に直線直角だが、遠見遮断で時に喰い違いや鉤の手、丁字路になったりしている。

備中高梁 頼久寺架道橋

頼久寺架道橋

伯備線のガードをくぐって左へ折れると、武家屋敷通り「石火矢町ふるさと村」だ。

備中の小京都とも言われる高梁、石火矢町はその中でもよく旧景をとどめている。

備中高梁 石火矢町ふるさと村

石火矢町ふるさと村

備中高梁は映画「男はつらいよ」のロケ地で、第8作「寅次郎恋歌」、第32作「口笛を吹く寅次郎」の二作品で登場している。

備中高梁 男はつらいよ ロケ地石標

男はつらいよのロケ地石碑が並ぶ

武家の町らしい風情!

路地の両脇には白壁の長屋門や土塀が続いている。

約250mのまっすぐな道。往時の生活を色濃く残している。

石火矢町ふるさと村

武骨な門や雅な土塀が並ぶ

気が付けば備中松山城の臥牛山も間近に見えるようになってきた。

江戸時代初期、備中松山初代藩主・池田長幸の城下町拡張によって整備された町並み。

藩政時代は中級武士の屋敷が立ち並んでいた。

備中高梁 石火矢町ふるさと村

これは歩き甲斐があるぞ!

駐車場にせよ町並みにせよ、混雑しないか心配していたけど全っ然杞憂だった。

これだけ素晴らしい景観なのに、少ない人数で独占できるなんて贅沢だなぁ。

 

 

 

 

武家屋敷は二軒が復元整備、公開されている。

旧埴原(はいばら)家は150石取りで主屋は江戸時代中期以降のものだ。

備中高梁 旧埴原家

寺院や数寄屋風の要素を取り入れた建築が残る

江戸時代、財政難に困窮を極めた備中松山藩だが、幕末に至り山田方谷(ほうこく)を輩出した。彼は傾いた藩財政を支出の削減、借金返済の猶予、備中特産の砂鉄や木綿の専売を行うなどして建て直した。

備中高梁 石火矢町ふるさと村 武家屋敷旧埴原家近辺

武家屋敷 旧埴原家近辺

さらに教育者としても手腕を発揮し、人材育成に努めた。その噂は越後長岡藩にもとどき、河合継之助が師事し、帰藩後に藩政改革を成し遂げている。

備中高梁 旧折井家 長屋門

旧折井家は、160石取り。立派な長屋門が残っている。

備中松山藩は江戸初期は6万5千石、後に5万石となる。

藩主は外様の池田氏から水谷家(後に譜代)、安藤家、石川家、板倉家と譜代大名が続き、明治維新を迎えている。

備中高梁 石火矢町ふるさと村 武家屋敷旧折井家

武家屋敷 旧折井家

幕末は旧幕府勢力に加担し二万石に減封され名前も伊予松山と被ることもあり改称の憂き目にあった。旧来の地名である高橋ではなく雅なイメージのある梁の字を用いたのはせめてもの抵抗だったろうか。

 

いずれにしても、高梁の町を歩けば藩政時代、さらにその昔の面影をも想起することがでる。皮肉にも遺った天守とともに、この町を歩くことそれ自体が、歴史のおかしみを味わう静かなスパイスとなっているかのようだ。

 

To Be Continued👉

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