備中高梁に降り立った私は、備中松山城のある臥牛山の遠さにちょっと後悔しながらお城山を目指した。
車なら「城まちステーション」まで行って車を停め、シャトルバスへ乗り換える。
シャトルバスは「ふいご峠」まで行ってくれる。そこから約20分で本丸だ。

松山城登山口にバス停があるが本数が少ないので注意が必要だ。
山田方谷家塾 牛麓舎跡の碑とバス停を眺めつつ、備中松山城方面へ。

城郭の内堀に見立てた小高下谷川に沿って200m程度で遊歩道入口だ。
石造りの中州橋を渡ると、わかりやすく虎口になっている。

喰い違いになっている虎口から城内へ。
そう、ここからがいよいよ備中松山城内なのだ。
いざゆかん!
虎口を進むと、江戸末期から大正期の漢学者で法官であった三島中洲の旧宅跡がある。
備中高梁の偉人・山田方谷に学んだ旧藩士である。
ここを「虎口渓舎」と名付け、漢学の私塾を営んだ。

虎口渓舎跡はその名の通り虎口のちょうど真ん中あたりに位置している。
周囲は畑になったりしていてどのていど手が加えられているかよくわからない。

さぁ、いよいよ登城口。
日本三大山城の一つと称され、山城としては唯一の現存天守を擁する備中松山城へと登る。

天守まで1,500m、ふいご峠は8合目にあたる。そこまで800m。
標高は約480m、中世の臭いを残した山上の近世城郭だ。

と、盛り上がったのはここまでで、ここから先は一切の山登り。
情緒もへったくれもないけどww
只々ひたすら登るのみ。

初めの築城は鎌倉時代に遡る。
幾多数多のサムライたちがここを登ったのであろう。
たいへんお疲れ様です!!

往時の武士たちからしたら、このような道を物見遊山で登るなどとは酔狂でござるな、とでも哄笑されるに違いない。我ながらなんでこんなことしているのかしら、と思う。まさに酔狂でござるな。

この記事は2026.5.30に訪ねた際のものであるが、翌週に中国地方は梅雨入りした。
真夏ほどコバエや蚊のようなうっとおしい虫は少なく、大きなトカゲが何匹も私の足音に驚いて逃げて行った。

小さな花も所々に咲いていて、ただ登るべしと心に決めた私の歩速をたびたび緩やかにさせる。せっかくなので、たまには花も写真に撮っておこう、そんなことを思った。

やがて麓からの登城道で最大にしてほぼ唯一の見所・大石内蔵助腰掛石に至った。
あの、大石内蔵助である。忠臣蔵の。赤穂浪士の。
彼がこの岩に腰かけたのは、吉良邸への討ち入りより遡ること8年前。
高梁の基礎を築いた水谷氏は、藩主急逝と継嗣断絶により改易となってしまう。松山城は赤穂藩主の浅野長矩によって接収されることとなった。その配下として城の明け渡しを滞りなく済ませる役割を携えていたのが大石内蔵助だったのである。

先方を内蔵助、大将を長矩とし多数の軍勢で挑んだ赤穂勢は、殺気立つ城兵数千を擁し待ち構える家老の鶴見内蔵助と対峙。一触即発の中、大石内蔵助は単身で鶴見内蔵助と対面。内蔵助同士、ギリギリの折衝によって開城は平和裏に行われた。

そんな爽やかなエピソードを木漏れ日と共に浴びていると、ふいご峠に到達した。
多くの人はここまでシャトルバスで来て本丸を目指す。
それでも子どもやお年寄り(それに私)は閉口するほどの登山ではある。

中太鼓丸に差し掛かるころ、城下の景色が開けてきた。
切り立った山々の谷底に形成されたほのかな平野部に城下町がたたずんでいた。

時折、ガタンゴトンと列車が線路を走る音が聞こえてくる。
存外遠くまで聞こえるその音は、ひとり山を歩く不安をほんのり解消してくれた。
思いっきりズームして備中高梁駅方面を捉えてみた。

ここまで木漏れ日を浴びながら森林浴のように急坂を登ってきたが、視界が開けた。
時代も中世から近世城郭の世界にタイムリープしたみたいだ。
ふいご峠の先、観光客も増えてくると何故かひとり歩いていた頃が懐かしい。

櫓台の一段下も視界が開けていて、ベンチが置いてあった。
私はここへ腰かけて持ってきた水筒を肩掛けから取り出し、飲んだ。
わかりにくいが、前方に連なる小山が下太鼓丸跡らしい。

ここには音声ガイド付きの案内看板が置かれていた。
一通り聞いてまた歩き出す。
登城心得看板には、この辺りが中間地点であると書かれている。

中太鼓丸は、古文書では「上太鼓の丸」とされているものもある。本丸を擁する小松山から南へと延びる緩やかな尾根上に在する。城主殿の案内の通り、大手門との中間点にあたり、麓の尾根小屋と前山の下太鼓丸の二ヶ所と太鼓の音で情報伝達をしていた。

近世城郭の備中松山城として中太鼓丸櫓台の石垣には算木積がみられるが、ここの石垣はそういった技法はなく、自然石を積んだシンプルなものである。
城郭の石垣技術の古いものであるが決して乱雑に積んだわけではないと思うのは、今に至るまで崩れていないからだ。

中太鼓丸櫓跡へ進む。
石柱には上太鼓丸と刻まれている。
下と中があって、上はどこにあるのだろう。

松山城下は備中から美作や山陰などを結ぶ中国地方山間部の要衝である。
戦国時代末期の天正年間には毛利氏と宇喜多勢が争う「備中兵乱」が起こるなど、この城を巡って多くの戦乱が勃発している。

備中松山城の地面には多くの瓦が落ちている。
いつ頃のものなのかよくわからないが、土塀や櫓の瓦がそのまま残っている気がする。

昭和の修築の際、地域の人々が瓦を担いで登ったというエピソードがあるが、それがこのように打ち捨てられるようになるとは思えないし、櫓や土塀などの建築意外にここに瓦が存在する意味を考えられない。想像力が乏しいからかもしれないが。

大手門下まで来ると、大きな案内板があり大手門跡や犬走りについての解説が書かれていた。犬走りは大手門への道と土塀で分岐しており、そのまま城内裏手である搦手門跡へと続いている。

一方、石段を上がると大手門跡である。
城主の案内板が歓迎の意を示してくれている。

大手門跡の近辺は、現存天守に匹敵する見所である。
大手門の櫓台と三の丸、一番上が厩曲輪の石垣が連なりそびえている。
厩曲輪石垣は岩盤から立ち上がり土塀が白く晴れやかである。

さぁ、この先いよいよ備中松山城の主郭だ。
私は大手門跡を正面に見据え、汗だくで石段を進んでゆくのであった。
To Be Continued👉
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