しったかぶり!日本紀行

~果てしなき旅景より~

4 備中松山城(2) 大手門跡から本丸へ!さんじゅーろーに出会い現存天守へ

中世の山城を登ってきたと思ったら、いきなり近世城郭の粋を見せつけられる。

そんな趣で私はいよいよ大手門の先へと歩みを進める。

 

麓から登山の様子はこちら

sittaka-travel.com

 

大手は桝形虎口の構造になっていて大手御門が建っていた。

両脇の石垣を跨ぐ壮大な造形のものであったという。

備中松山城 大手門跡

大手門跡

大手門跡の正面には足軽箱番所跡がある。

表示の石柱から大手門北側の石垣上を箱番所跡とする記事もあるが、三の丸石垣真下の小さなスペースが足軽箱番所跡に相違ありますまい。

備中松山城 足軽箱番所跡

大手門の先にあった足軽箱番所

大手門跡から北櫓台の石段越しに厩曲輪を眺めてみる。

タテの構図はブログでは見にくいが、全部入れて撮ろうとするとどうしてもタテになってしまう。

備中松山城 大手門跡から大手門北北側石垣

雄大すぎる大手門北側石垣

土塀は一部現存している。ちょっとこの構図で見えているか分からないが、手前は復元されていて、奥まっている部分が少しだけ残っているようだ。

備中松山城 大手門北側の石垣

さらに近づく。素晴らしい

大手門北櫓台跡から三の平櫓東土塀を眺める。

こちらも一部現存で、城郭の土塀としては珍しく重要文化財に指定されている。

どこが現存かというと、ふふ、調べたのでお教えしましょう。

 

 

 

 

手前の狭間を左から見て丸、四角、丸、丸、四角 I(少し間がある) 四角、丸、丸

とあるでしょう。この「I」の部分に段差があり、その左が現存、右が復元なのです!

備中松山城 三の平櫓東土塀

現存の三の平櫓東土塀

現存土塀の左手の奥まったところ、二の平櫓跡へ行ってみる。

ここの土塀は復元だ。

備中松山城 二の平櫓跡

二の平櫓跡

二の平櫓跡から三の丸、厩曲輪を眺めてみる。

城内の櫓は10基あり、いずれも平屋建てだったという。

備中松山城 二の平櫓跡から三の丸、厩曲輪

卒倒しそう

土塀の復元を厩曲輪の隅っこと三の平櫓東側だけにとどめたのは正解かもしれない。

この絶景はもしかしたら復元によって(より正確な景観にはなるだろうが)崩れるのではないか。

備中松山城 連なる石垣

美しき

私はこのブログを書きながら「史跡 備中松山城跡 大手門跡・二の平櫓跡発掘調査報告書(クリックで資料のページへ)」というPDFを読んでいるが、土塀が復元される前の写真が載っている。

備中松山城 重要文化財 三の平櫓東土塀

要文化財 三の平櫓東土塀

面白いことに、現存の土塀の三の平櫓跡方向の端は切り落とされているわけではなく、端末まで漆喰を塗り込めて完結しているように見える。修復時に作り変えたのだろうか。

 

 

 

復元土塀の先に三の平櫓跡があり、城道を隔て三の丸が広がっている。

三の丸には足軽番所と上番所という2つの番所があった。

備中松山城 三の丸

三の丸

その直下には足軽箱番所があったことを考え合わせると、この大手門を正面に見据える三の丸東端の防御の厳重さを想像することができる。よね。

備中松山城 黒門跡へ

黒門跡へ

三の丸の先に黒門跡がある。その先に狭い入口の厩門があり厩曲輪へと続く。

三の丸と同様、お向かいに四の平櫓跡がある。

備中松山城 黒門跡

黒門跡

厩曲輪には先述の通り土塀が一部現存(厩曲輪東隅土塀)している。

多くは復元されているが、現存部分は隅から約3mで、少なくとも3回程度修築されているとみられている。

 

 

 

 

古写真では三の平櫓東土塀とは違い断面は切りっ放しになっているように見える。

史跡備中松山城跡保存管理計画策定報告書 - 全国文化財総覧

備中松山城 厩曲輪

厩曲輪 土塀が見える

城内には10の平櫓があったことは触れたっけ?

登るにつれ数が上がるのだが、ここは四の平櫓跡。

この上段は御膳棚といわれ、かつてはご飯を作る場所だったが今はトイレがある。

備中松山城 四の平櫓跡

四の平櫓跡

御膳棚の上段は二の丸だが、その間に犬走のようなスペースがある。こういう所に無駄に入り込むのが好きで行ってみたけど、向こう側は特に目新しいものは無かった。

 

それより、これは巻石垣ではないか。

巻石垣とは、元々ある石垣の経年による崩落や孕み(内部からの膨らみ)を防止するために補強として継ぎ足された石垣のことである。

備中松山城 二の丸石垣の巻石垣

二の丸石垣に施された巻石垣

登城道に沿った二の丸南面の石垣は、城内でも最も古い時代のもので「毛利氏が造らせた(公式HPより)」部分である。中太鼓丸で観た石垣も算木積みが未成熟で相当古そうだったけど、あれも同じくらいの時代じゃないのかな?

備中松山城 二の丸石垣

城内最古!

荒々しい野面積みの石垣を眺めつつ進むと、二の丸の虎口に当たる二の櫓門跡である。

南面から続く石垣は算木積みどころではない積み方だが、造形の美しさを感じずにはいられない。ひときわ大きな石垣は、城主の威光を示すいわゆる鏡石だろう。

備中松山城 二の櫓門跡

鉄門跡とも

ここまでの遺構だけでも十分に100名城に数えて遜色ないほど遺構が充実しているが、備中松山城にはご存知の通りメインディッシュが本丸に待ち構えている。

二重二階、小ぶりながら威厳に満ちた天守が、二の丸に至ると眼前に現れる。

備中松山城 二の丸からさんじゅーろーと本丸

さんじゅーろーの像と一緒に撮影しよう!

延応2(1240)といえば鎌倉時代だ。その頃この臥牛山の大松山に砦が築かれて以来、幾多の戦乱の渦中にこの城はあり続け、何度も城主を変えながら戦国時代の終わりには、ほぼ全山が要塞化されていた。

 

 

 

 

天守は江戸時代の初期後半ごろに当たる、天和元(1681)年から3年間にわたる大修築の際に今の形になったとされている。武家諸法度により築城どころか改築、修復さえ容易にできなかった時代である。

備中松山城 二の丸から天守

すんばらしい

備中松山藩は、主に譜代大名が治めていた。譜代とは徳川家康やそれ以前から徳川家に仕えていた忠誠心の篤い大名のことで、幕府がこの地を重要視していた証左ともいえる。ターゲットはもちろん、かつて中国地方のほぼ全土を支配し、関ヶ原で家康に盾突き周防・長門二州に押し込めてやった毛利氏である。

備中松山城 本丸へ

いざ本丸へ

上の写真で手前の櫓が「五の平櫓」、その隣が「六の平櫓」いずれも復元である。

本丸への入口でチケットを購入する。

日本100名城スタンプ 68 備中松山城

ゲット!

いつもなおざりにしてしまう100名城スタンプをゲット。

紙で残すのキリがないので撮影w

復元の本丸南御門ごしに見える天守がまた乙で♪

備中松山城 天守

いるかな?さんじゅーろー

いっしっし~と笑っている髭面のお殿様みないな天守。

現代の備中松山城の猫城主・さんじゅーろーは毛づくろい中でお相手はしてもらえませなんだ苦笑

備中松山城 さんじゅーろーと天守

忙しそうでしたw

天守は層塔型であるものの、望楼型とする記事もネットにはある。公式は層塔としている。私も層塔だと思う。

備中松山城 天守

じっくりと観察

西側の入口である廊下と、東側の付櫓とその大入母屋、天守正面の雅な唐破風で一見すると望楼型のように見えるが、建築年代が江戸期で層塔型の時代であったことも考え合わせると、複合式層塔型二層二階ということになりそうだ。

備中松山城 天守付櫓

付櫓にも注目

天守台の石垣は岩盤上に築かれており、こうしてよくよく見てみると目くらましの三層目(廊下と付櫓)が羽に見えてきて、今にも羽ばたき飛び立ちそうな気がしてきた。

備中松山城 岩盤上に築かれた天守

岩盤がかっこいい

凝らされた意匠はなんというか、意地とか執念さえ感じさせる。

見れば見るほどに奥深い天守だ。

備中松山城 八の平櫓跡

八の平櫓跡

天守は、元々は八の平櫓から廊下を通り入る構造になっていたが、昭和15(1940)年の大修理の際に八の平櫓の荒廃が甚だしく原型復帰が困難とみなし止む無く切り離したという。

備中松山城 天守入口の廊下

やっと天守へ

上部は白漆喰、下部の腰板は竪板張りである。

では、天守の内部へと侵入してみよう。

ここで靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。

備中松山城 接続廊下

八の平櫓→渡し櫓→接続廊下(イマココ)→天守となっていた。

天守へ入ると、備中松山城に関する様々な展示や、なんといっても実際の天守の機能的な部分をじかに観ることができる。

 

 

 

 

石落としは、1階の床の一部を石垣の上に張り出し、敵兵が攻めてきて石垣に取りついたらその名の通り石を落としぶつけて攻撃する機構である。外観が魚のエラに似ていることから、鰓形窓とも言うと説明板に書かれている。

備中松山城 天守 石落とし

石とか糞とか熱湯とか落とすのだろう

こちらは天守本丸側の唐破風だが、出格子窓が設けられており(いっしっし~の部分)、さらに石落としの機能も併せ持っている。

備中松山城 天守 唐破風の石落とし

オールインワン天守か!

明治6(1873)年の廃城令以降、日本中の城郭建築が取り壊されたが、ここも例外ではなかった。しかし幸いなことに山の上に築かれたこの近世城郭をわざわざ破壊するほど明治日本は暇ではなかったのだ。

備中松山城 天守内

昭和と平成の大修理の模様が展示されている。

この時代の日本人は、驚くほど薄情にそれまでの歴史を忘れ去り、山上の建築物は放置された。60年以上の歳月が流れ「昭和の大修理」によって復活するのだが、そのきっかけは地元の高梁中学校教師・信野友春が発刊した『備中松山城及其城下』だった。

備中松山城 天守 装束の間

装束の間 落城時の城主一家の死に場所である

信野友春は広島の出身で教員免許を取得し、宮崎などで教鞭をとり、やがて高梁へ赴任した。

備中松山城 天守 展示

思いのほか広く感じる

歴史教諭であった友春は備中松山城の歴史的価値を知り、何度も城へのぼり測量を行い『備中松山城及其城下』を作成、大修理の機運を盛り上げた。

備中松山城 天守 武者窓

武者窓

窓の格子の武者窓は、角材のカドを外側に向け並べている。こうすることで外から中が見にくく、内からは外を広角に見ることができる。

備中松山城 天守 武者窓

武者窓から。確かに良く見える(写真は2階)。

囲炉裏は天守建築としては大変珍しい。

幾多の戦乱を経験し、実践を想定し籠城時の食事や暖房を想定して掘られたものである。

備中松山城 天守 囲炉裏

冬はあったかい

天守2階には、御社壇が設けられている。

これは松山城修築時に松山藩5万石の守護として三振の宝剣、天正皇太神、藩主水谷氏の守護神・羽黒大権現など、10の神々を勧請し祀ったもので、様々な場面で盛大な祭典を行い安康を祈ったという。

備中松山城 天守 御社壇

御社壇

ただ遺っただけではない、一度は忘れ去られ、荒廃しきった天守である。

昭和の大修理の際は、地元の小学生や中学生、女学生らが2万枚もの瓦を山頂まで担いで運んだというエピソードも伝えられている。

備中松山城 天守 天井

天井を仰ぐ

格子窓は外を見るのにとても良いが、写真を撮るのは大変難しい。

角材の間からなんとか手を伸ばし、半ばあてずっぽうでパシャっと撮る。

備中松山城天守から本丸方面

よく晴れてくれました

唐破風の頭と本丸、二の丸、城下をバッチリ捉えることができた♪

ちなみに天守はもちろん現存で重要文化財に指定されている。

備中松山城 天守から二重櫓

二重櫓もお見逃しなく

他に、二重櫓も現存建築物である。
天守を降り、二重櫓を観に行ってみる。

二重櫓への入口は二ヶ所あり、一ヶ所は天守裏にある。

備中松山城 天守裏から二重櫓

天守裏手から眺められる

もう一ヶ所の入口は北側の後曲輪にある。

こちらも重要文化財に指定されているので、ぜひ裏へ回って眺めよう。

岩盤上に築かれている迫力満点の姿を見ることができる。

備中松山城 後曲輪方面から二重櫓

後曲輪方面からも忘れずに!

備中松山城の2回目は主郭部分をめぐり、現存天守へ至った。

この城の奥深さはここで終わらないことだ。

私はふぅと一息ついて、この城の奥地を目指すのであった。

 

 

To Be Continued👉

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