備中松山城を麓から登城し、ついに天守を攻略した!
大手門から壮麗な石垣群を眺め、素晴らしい意匠の天守をじっくりとめぐり、大満足で下山・・・
とはいかないのが私の城めぐり!
備中松山城めぐりはまさかの@裏面へ突入!?
実は主郭部分の後方には、さらなる遺構が残っているというのだ。

復元された土塀を眺めつつ歩くと、本丸東御門(復元)がある。
裏面らしく、大手門以降日当たりがよかったけど木々が日を隠し始めている。

本丸東御門の先の石垣は、優しく弧を描くように続いている。
角ばった曲輪配置のイメージだったけど、柔らかい趣に少しほっこりする。

この辺りの石垣は打込接のようだけど、苔むし木が生えてすでに古城の感がある。
まだ主郭部分の裏手なんだけどね(´ω`)

その石垣の右手が、いかにもらしい搦手門跡である。
標柱には「搦手門曲輪」とあるが、曲輪と言えるほど広いだろうか。

天守と二重櫓の間あたりに位置する腕木御門(復元)。
東御門も石段だったが、こちらは天守の段でもありもう少し高い。

本丸・天守の真裏に位置する曲輪の名は「後曲輪」
あまりにもそのまんまなネーミングだが、九の平櫓跡といい後方の石積みと言いなかなか素晴らしい遺構である。

ここから岩盤上に築かれた現存する二重櫓をバッチリ眺めることができる。
城内唯一の二重櫓で重要文化財に指定されている。
天守も二重だが、前回の記事で三重に見えるよう工夫されていることに触れた。
ひょっとしたらこの二重二重した二重櫓も天守を際立たせる作戦だったのではなかろうか。そんなことをふと思った。

一段高い場所にあった後曲輪から降り、十の平櫓跡を横目に水の手門跡へ向かう。
この先が本格的な松山城の「裏面」大松山城や天神の丸跡へと向かう。

もう、半ばヤケクソである。
変な表現だけど、思った通り思ったよりも時間が掛かっている。
時刻は12:30。麓から1時間20分、車を停めた市役所駐車場から2時間が経っていた。

水の手門以降は、大手門以前と同じで大部分は山道となるが、所々に中世・近世織り交ぜて遺構を観ることができる。

今は木の橋が架かっている土橋を渡る。
有事の際はこの橋を切り落とす算段だったと思われる。
それは籠る時だったか、それとも逃げ落ちる時だったか。

土橋の先には番所跡がある。
備中松山城には番所がたくさんあったんだなぁと感心する。

天守から約350m。
相畑城戸跡には石垣が残っている。
石積みと言った方がより印象に近い。

樹木が生えて、やがては崩れ去る運命なのだろうか。
相畑の曲輪跡は広く開けている。
ここが「備中兵乱」という戦乱の古戦場になったという。

檜皮の森林は、そのすぐ先にある。
ここの林は国有林で、檜皮は国宝や重要文化財の歴史的建造物の維持・補修に役立てられているという。

標高480mの臥牛山の最高峰に位置するのが、天神の丸跡だ。
天正2(1574)年に備中松山城主の三村氏と毛利氏が争った「備中兵乱」では、この天神の丸が最初に陥落したという。

江戸時代には天神社が祀られていたという。
廃城令の後、朽ちゆく近世城郭の櫓や土塀と運命を共にした。

ご神体は城下の龍徳院に移設されたという。
「天神の丸」というからには備中兵乱以前から祠などが祀られていたのでは?と思ったり。

神社には本殿や拝殿などの跡が見つかっており、遺構のあたりに立つと往時の規模感が伝わってくる。

天神の丸だけで本丸・出丸など尾根上に5つの平坦面が築かれていた。
天神の丸跡からさらにもっと奥地へ。
2000年に林野庁が選出した「森の巨人たち100選」に選ばれた臥牛山のアベマキは、2019年に残念ながら枯死してしまっているが、山中で神々しさの際立つ推定樹齢350年と言われる巨木であった。

アベマキの先、天守から650mの位置に大松山城と大池方面への分岐がある。
私はすぐ戻れるものだろうと思いとりあえず大池の方面へと進んだ。
やがて眼前に現れる「大池」は、ちょっと信じがたいスケール感を持っていた。

てっきり中世の山城に終始するものと思っていたのだが、大池はゴリゴリの近世建築に見えるぞ。
池が掘られた時代は分っていないが、慶長年間に小堀遠州が描いたとされる絵図に谷川を堰き止めた池として表示されているという。

江戸時代になり、水谷氏が小松山城を大改修した際(1680~83頃?)に、総石垣で長方形の池へと変貌した。元禄7(1694)年には、大石内蔵助が城代となった際の手紙で池に屋根があったこと、船が浮かべてあり、清掃用であることが記されている。

平成28(2016)年の発掘調査では、貯まっていた水を全部抜くなどしてその構造や規模が、城郭の貯水池としては国内最大級であることが判るなど大きな成果を得たが、明確な存在理由は今もってよくわかっていないという。
池に屋根を着けたのは枯葉などが入らないためだろうか?私見だけど、平和な江戸時代にあってこの池の当初の貯水などの目的は薄れ、案外子どもたちを遊ばせたり泳ぎの練習をさせたり呑気なものだったのではないかなと思ったりした。

令和6(2024)年には谷川にある排水口の外側を調査した結果、谷を堰き止めるような石垣が出土し、池から木樋が通され排水設備としていたことも分かった。そのさらに北側には池状の遺構も見つかるなど新たな発見が相次ぎ、今も復元整備が行われている。

いずれにしても、廃城になるまで幾度となく改修されたことを思い合わせると、水利にせよ何にせよ大事に扱われていたことは揺るがせないだろう。
まだまだ謎の残る備中松山城の「裏面」。さらに私はその奥へ奥へと進んでゆく。
To Be Continued👉
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