備中松山城徹底攻城戦!
前回の記事では、主郭の後曲輪跡から天神の丸、大池までめぐった。
ほとんど自棄になりつつ主郭の裏にひっそりと残る遺構をめぐっている。
人けはほとんどなく、ただ一度、雲海展望台の方面からハイキングで来たような私より一回りほど上になりそうなご夫婦とすれ違った位である。
調査と復元整備が進んでいる大池を後にし、私はさらに奥地へと進む。
大池の遺構は天守から約680m。距離以上の遠さを感じている。

臥牛山の北側、大松山つり橋に至る。
総延長120m、向こうのお山へと続いている。

橋の途中からの風景は絶景で、いかに山が深い地域なのかがよくわかる。
半分以上渡った所で後ろを振り返ると、右手に大松山城、左手に天神の丸跡を眺めることができたが、写真を撮っていなかった・・無念。

ところで、臥牛山についてであるが。
北から大松山、天神丸、小松山、前山の4つの峰からなっている。
一帯は臥牛山国有林で、多くの動植物が暮らしている。

主郭の遺る南側では、モミヤツガを上層木に持つ臥牛山本来の森林が残り、西向きの斜面には森の巨人・アベマキをなど樹齢100年を超す天然林が広がる。東側には、50年もの歳月を要し養成するスギやヒノキの人工林も形成されている。
臥牛山の自然を楽しむことも、この城址を知る一つのお勉強である。
吊り橋の先は簡易に舗装されていて、少し歩くと雲海展望台まで980mの表示があった。
まだ距離があることにちょっと絶望しつつ、もう進むしかなかった。

やがて、コンクリートに舗装された道に出る。
大型バスの展開場からは車道なので歩きやすい。

天空の城 備中松山城展望台に到着!
天守から実に約2,000m、40分以上の時間が掛かっていた。

雲海に浮かぶ備中松山城を天空の城と言い始めたのは2010年代の初め頃だったろうか。
この日は雲海シーズンでもなく、時間帯でもない。

澄み渡った初夏の晴れの日である。
備中高梁の町並みがあんなに遠くに見える。

天守をコンデジのズームで撮ってみる。
樹木で隠れてしまっているが、往時はかなりどっしりした「三層」天守の威容が眺められたのではないか。実際は二層だが、うまく3階建てに見える意匠となっている。

雲海展望台には車で来たであろう西洋人と東洋人のカップルと、女の子4人グループがキャピキャピと展望台の絶景を眺めていた(備中松山城を降りるときすれ違って、あれ?あの人なんで上から来たんだろ、てなってた苦笑)。
展望台から元来た道を戻る。
大吊り橋の城側へ戻った所に分岐がある。向かって右手へ約100m進む。
幕末に出た備中高梁の偉人・山田方谷が整備したとされる番所跡があった。

ここは安政4(1857)年、城の北端を守るために整備された谷底の切通しと番所跡である。備中松山藩主・板倉勝静は聡明な君主であり方谷を登用したのも彼だが、立場上幕府側に付かざるを得ず、付くなら全力で幕府側で戦おうとした形跡がある。

そのため備中松山藩は勝静が幕府と行動を共にし不在の状態で「朝敵」として四面楚歌になり岡山藩から攻められる。松山藩は抗戦を決意していたが朝敵であること、領民を守ること、板倉家の存続を考え投降を決意、無血開城となった。

中世からの歴史上、幾多の戦場になってきた備中松山城、しかしその最後は戦乱にその身をゆだねることなく、ギリギリの決断で戦火を免れた。おかげで天守も城下の町並みも今に残っている。麓の登城道で観た「二人内蔵助」の逸話が思い出された。
私のブログは基本的にめぐった順番をほぼ変えることなくつらつらと書いているため、時代はあっちへ行ったりこっちへ行ったりと忙しない。
最後になってしまったが、備中松山の「はじまりの城」である大松山城へ攻め入った。

標高470mの大松山山頂から西へと延びる尾根上に築かれたこの中世山城は、延応2(1240)年、地頭・秋葉三郎重信によるものである。
東西6ヶ所の平坦面に本丸、二の丸、三の丸などを配し、腰曲輪と呼ばれる小さな平坦面がそれらに従っている。

さっそく進んでみる。
二の丸に付随するような腰曲輪の本丸側の下段に井戸跡の石組が残っていた。
覗き込んでみる。水は湛えられていないが石組ははっきりと残っている。

本丸へと上がった。
思ったよりも広く、端まで行くと二の丸との堀切(少し薄い)の様子も見られた。
中世の城はこんな山の奥まった所にあり、さぞ不便だったろうなと、面白くもない感想を備中松山城の全山をめぐったその最果てに抱いたのであった。

さて、下山しつつ備中松山城と私が暮らす神奈川県横須賀市について少し触れておきたい。大松山城を築いた秋庭氏は、横須賀市も在する三浦半島に勢力を持つ三浦一族の人である。

秋庭重信は承久の乱の戦功で備中有漢郷の地頭に任じられた。太平洋側の温暖な地域である相模の三浦から、雪も降る山深い備中のこの地へ来た重信やその郎党は途方に暮れたのではないか。

この時代の備中は瀬戸内海に面して三浦なんかよりもよっぽど開けていたのではないかと思うのだが「思ってたんと違う」と感じたのではないか。ただ、この地が鉄や銅を産出し、山陽・山陰を結ぶ要衝であることから重信への信頼は厚かったと思われる。
彼らは一生懸命に臥牛山の要塞化をはじめた。近世城郭のある小松山は花崗岩で開発が困難だったらしく、有漢の砂鉄で得た利益で工事費用の捻出、石工を招いて職人の育成を行ったという。

今や備中松山城は雲海に浮かぶ天空の城と呼ばれ、煌びやかな「第二の人生」を歩んでいる。私は今回、その裏手にまわり、黒子に徹している中世から近世、幕末、現代にいたる歴史が連なって眠っていることを発見し、備中松山城の魅力が、実は歴史に裏打ちされていることを知った。
予定時間を、予定通り大幅にオーバーしたが、満足な登城ができて本当に良かった。
損傷したことのある膝が久方ぶりにカクカク痛むが、爽快な気持ちで備中松山城を駆け下りたのであった。
To Be Continued👉
最 後まで読んでいただきありがとうございます📚
わたくし、ご当地バーガー🍔に好物のチーズ🧀をトッピングしたく、「投げ銭」を乞うております💰
推参不躾ではござりまするが、どうぞお引き立てのほどお願い申します(`・ω・´)ゞ
「しったかぶり!日本紀行」応援してね!
旅のメモ📝