宮城ひとり旅も最終3日目。
塩釜で迎えた朝一番の散歩は「陸奥国一宮 鹽竈神社」
参道からそびえる202段の石段!ここを登るのは16、7年ぶりか。たたずまいからして、ただ事ではない雰囲気を持っている神社だ。

創建年代は、わからない。それほどに古く、旧国府・多賀城とともにこの地で発展してきたと考えられている。現在の社殿は、江戸時代の仙台藩伊達4代綱村から5代吉村が、足かけ9年の歳月をかけ宝永元年(1704)竣工されたものである。

(2002)年に本殿・拝殿・四足門(唐門)・廻廊・随神門以下14棟と、石鳥居1基が、国の重要文化財の指定を受けている。
その重文である表参道の石鳥居は。寛文年間に伊達藩主・4代綱村によって奉納された。「陸奥國一宮」と力強く書されている。

これは姫路藩主・2代酒井雅楽頭(うたのかみ)忠以の筆による。もとは東参道二の鳥居に掲げられていたという。
表参道は202段の表坂の石段を登る。登りがいがあるぞ。さっきよろよろ私の少し前を歩いていたおじいちゃんがさらさらと登っていく。「これが柔よく剛を制す」なる業か。なんていぶし銀なじいちゃんだ。

言い訳だが、私は長男が赤ん坊の頃に保育園に連れていく最中に半月板を損傷(正確には「左膝外側円板状半月兼損傷」といった。)し、4年前に手術をしたという経緯があり、膝がまだ時々痛い。よって、いぶし銀翁には到底敵わない。
これまたいぶし銀な趣きを醸し出している燈籠を仰ぎ見ると、台座に由緒が書かれていた。

碑銘文によると、大東亜戦争による金属製品の供出が全国の社寺にも波及して、「所蔵する金属製品は勿論青銅或は鉄製の燈籠狛犬に至るまで悉く提供するに至れり」とある。江戸末期の嘉永元年奉納のものであったが、台座を残し涙を飲んで供出し、戦後30年そのままとなっていた。

「今は空しく台座を残し以て往時の威容を偲ぶに足る」としつつ、やはり再建への思いは篤く、昭和天皇の在位50周年を記念し、青銅製で高さ八尺(約242.4㎝)の燈籠が昭和51(1976)年の12月に竣工し碑文を興し、今に至る。

ひたいに汗汗、やっと登りると、馬場を挟み最後の石段があり、その先に勇壮な随身門がある。宝永元(1704)年建造。三間一戸楼門、入母屋造、銅板葺であり、その歴史・文化的価値から重要文化財に指定されている。

鹽竈神社は延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳(当時の日本全国神社一覧表みたいなもの)では記載が無く、式外社という扱いであったにもかかわらず、祭祀料10000束という破格の待遇を得ていた。

当時の陸奥は、東北地方のほとんど全域で、広大な範囲を守護する神社であった。大和朝廷にとって、相当な手合い(敵か神か、怨霊か、あるいはそれらの総称か・・)を祀ったと思われる。
丁寧にひとつひとつの末社や神木に手を合わせてお参りする人があった。

私にはこういう篤さというものが自分でも不思議なほどに無いのだが、こういった人々の思いというものは大切にしたいと常に思ってはいる。
台湾を民主化へ導いた偉人・李登輝前総統が平成19(2007)年に寄進した目薬の木があった。

氏は台湾の総統でありながら「22歳(1945年の終戦時)までは日本人だった」、「難しいことは日本語で考える」と語ったほどの親日家であり、この鹽竈神社へはプライベートで参拝に来たようだ。

さて、いよいよ境内の中心地へつづく中門をくぐる。この門と回廊も随身門と同じ時期に造営されている。無論、重要文化財だ。唐門なのだが、唐破風がない。どうも、江戸期のどこかで修復の際に外されたらしい。

唐破風の無い唐門の中門(ややこしや)をくぐるとその先は本殿のある中心部だ。拝殿にて賽銭を放り、手を合わせる。しかし実は、こちらには主祭神である「塩土老翁(シオツチオジ)神」はおられない。
そもそも、この神社に祀られているのが一体だれなのか、江戸時代に整備されるまで判然としなかったという。

左宮(さぐう)・右宮(うぐう)と呼ばれる社に祀られているのは、正面から見て右の左宮には「武甕槌(タケミカヅチ)神」、左の右宮には「経津主(フツヌシ)神」であり、いずれも国譲り神話での活躍が名高い。

武甕槌は、茨城県の鹿島神宮に、経津主は千葉県の香取神宮に、それぞれ常陸国一宮、下総国一宮に列せられ、平安の古くから手あつい信仰を受けている。いずれも武神であり、出雲の大国主に「国譲り」を迫った伝説がある。

主祭神の塩土老翁神は右手の別宮に、西側を向いて祀られている。
シオツチオジは、古来から航海・潮の満ち引き・海の成分を司る神、、または製塩にご利益があるとされてきた。「パワースポット」的な見方で言うと、「ありとあらゆる願い事を叶えてくれる」大変ありがたい神様ということになる。

謎なのは、中門をくぐって正面に鎮座しているのに、なぜか主祭神じゃないタケミカヅチとフツヌシ。塩土老翁神は、主祭神とわかりにくい向かって右側の別宮(これは特別・スペシャルといった意味だそうだ)に祀られている。

私はしばし境内をほっつき歩きながら思案に暮れている。
このことは、鹽竈神社のHPでも「謎」としたうえで、
→これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建て、大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し、海上守護の塩土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われております。

と言うのだが、方角はズレているし、海難を背負って、というのも釈然としない。
方角で言うと、古代の陸奥国府である多賀城の鬼門に位置することは間違いなさそうだ。

・・・・・・・!!!!!!!!
私は、たいへんな発見をしてしまった。
この配置には違和感、というか、既視感があった。その記憶の行き着く先は
「出雲大社」
であった。
あの縁結びの、島根県の、出雲大社である。
出雲大社の本殿は、主祭神のオオクニヌシを、ちょうど鹽竈神社のシオツチオジと同じように西向きに配置している。
実際は全く同じではないのだが、正面に大和系の神がいて、横に主祭神とされる神がいるという「ほとんど類例のない配置」が、なんと同じなのである。
オオクニヌシは国を譲ったが、シオツチオジは道案内をして国を奉ったという。
鹽竈神社が陸奥平定(もしくは最前線基地の一角)によって建立されたのなら、両者の状況はかなり似ている。
オオクニヌシが西向きなのは、黄泉の国を司るからだとしている。また、「負け組」である出雲族の王であるオオクニヌシが祟らないように丁重に祀っているのが出雲大社という説があり、私もそう思う。
つまり、鹽竈神社とは、「負け組」である蝦夷の怨恨を丁重に祀り、以て東北鎮護の守護神とした、というのことなのではないか。であるならば、鹽竈神社は東北どころか、出雲大社に匹敵する日本最強クラスのパワースポットということになる!!
とんでもないことになってきた。
・・・かもしれない。
古代史ミステリーを気取ってみたが、私が一つ思うのは、古代の人々の「神」への畏れは、我々が感じているよりもっとずっと大きかったということだ。
日本人の行動原理には「和」があり、「死」は触れることまかりならぬタブーである。
恨みは怨霊を生み祟るが、丁重に祀れば「御霊」となり世は平穏になる(御霊信仰)。
この原理で、おそるべき北方の敵を鎮め、やがて弥生(大和)と縄文(蝦夷)は混交していく。
古代はやがて中世へと向かう。そういった歴史の中で信仰を集めたのが、この鹽竈神社だったんじゃないかと思うのだ。

東神門を抜けると、その先は志波彦神社へ続いている。
こちらは延喜式内明神大社である。長くなったので、次の章へ譲ることとする。
つづく👇
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旅のメモ📝
| ⛩ 鹽竈神社 ⛩ | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 住所 | 宮城県塩竈市一森山1-1 | |||||||||
| 参拝時間 | 3月~10月 5:00~18:00 11月~2月 5:00~17:00 境内の参拝は自由。 |
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| 駐車場 | 境内の東側から北側にかけて参拝者専用の無料駐車場が 4か所(第1・第2・第3・バス)あり。300台 お祓いの車は坂上の社務所近辺まで参入可 |
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| アクセス | 🚃:JR仙石線 本塩釜駅より表参道まで徒歩約15分 東参道まで徒歩約7分 社務所前まで徒歩約15分、タクシーで5分 🚙:三陸自動車道 利府中ICより車で約10分 利府塩釜ICより車で約10分 仙台港北ICより車で約15分 |
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| ホームページ | 志波彦神社・鹽竈神社 公式サイト | |||||||||
| 👑鹽竈神社の称号 🔱 | ||||||||||
| 日本遺産 | #019 政宗が育んだ“伊達”な文化 | |||||||||
| 重要文化財 | 本殿・拝殿・四足門(唐門)・廻廊・随神門以下14棟、石鳥居1基 | |||||||||
| 国指定天然記念物 | 鹽竈神社の鹽竈ザクラ | |||||||||
| 一宮 | 陸奥国 | |||||||||
| 👛かかったお金 💵 | ||||||||||
| 賽銭 | 5円 | |||||||||
| 小計 | 44,258円 | |||||||||