今度はお城だぁ!レールマウンテンバイク・ガッタンゴーに乗り、その次は開館前にもきて、鉱山の駅からは遠く眺めた神岡城へ。
その模様はこちら ↓
2 神岡に朝が来た!子どもたちと開館前のお城をお散歩(^^)/
4 木製トロッコで行く!幼児OK 飛騨神岡「レールマウンテンバイク ガッタンゴー」
神岡中学校裏手の駐車場に車を停め、いざお城へ。
神岡城は昭和からの通称だ。
歴史上の名は「東町城」で通っている。野尻城、沖野城とも。山城が多い飛騨市にあって唯一の平山城だ。高原川の段丘上に緩やかに突出した部分にあった。
旧東町城区域が「高原郷土館(城ヶ丘公園)」として整備されていて、鉱山資料館、神岡城、旧松葉家の3館がそれぞれ神岡の歴史を教えてくれる。まずは入口からすぐの鉱山資料館へ。ここで3館共通の入館券を購入。

神岡は、まず「鉱山の町」で、亜鉛や鉛の鉱山として日本有数であり、「東洋一」とまで呼ばれていた。採取の歴史も古く奈良時代の養老年間に銅が採れたと伝えられている。資料館の入口にあるのは除渣鍋(じょかすなべ)という銅を分離する装置で、大正時代から昭和43年まで使用された特許品だったという。

館内でチケットを買うと、多動な長男かけ7歳は一気に2階へ上がり、そして外へ出て行った。次男くんじ3歳は機械的なものが割と好きなようで、分からないなりに資料館の展示を一緒に眺めて回った。操業の系統図や採掘された鉱石の展示は、その展示自体がレトロな色調だった。
鉱山は平成13(2001)年に閉鎖されている。鉱山技術が、その後のスーパーカミオカンデの建設に活かされたという。鉱山からニュートリノという素粒子や宇宙の謎解明の施設への転身とは、なんかちょっとワクワクする飛躍だね。

さてお城である。
子どもたちは「お城ー!」と言いながら猛然と城門(なかなか城っぽくてかっちょいい)を突破していく。

が、ちょっと外構も巡ってみたい。高原郷土館(城ヶ丘公園)の入口からすぐ、鉱山資料館へ向かう数10mの道にあるのが外堀だ。

幅はとても広いが、いかんせん浅い。廃城後に農地だったというから、完全に掘り起こしてはいないのかもしれない。
堀の中に降りてみる。石垣の向こうにそびえる神岡城模擬天守。全体に色調が緑なのが良い。

石垣は小さめめの岩を積んだ野面積である。昭和の整備時に積みなおされたという。各所の積み方を観てみると、なんとな~く、谷積(落とし積…下方へ重さを逃がして安定させる技法)を意識しているのかなぁ、と思った。

城の正面にあった外堀の石垣は、西側からすっぱり無くなっている。現地案内板を読むと、近世に作成された「飛州志」に古絵図が描かれているという。

そこには食い違いの虎口になっている入口と、南側の石垣がバッチリ記されている。昭和期の公園整備によって破壊されたか、自然に崩落したのか。
外堀の長尺は「四十間余」とある。調べてみると約72mとのことだ。

アジサイをはじめいくつか植樹があり、堀の中なのに庭園にいるようだ。外堀長尺の半分くらいの場所、写真右のトイレに向かって架けられている階段を登り、副郭へ。
副郭の幅は、約30mで、主郭をコの字に取り囲んでいる格好だ。

西面は断崖であり、模擬天守は城下町を見下ろしている。
副郭を観ていく。高山まで八里の里程標碑が置かれている。どこか街道にあったものを移動したのだろう。飛騨神岡から高山市までは32㎞よりすこし多いくらいだ。

城域で遺っている部分は、外堀の一部と副郭の一部、主郭のみである。城ヶ丘公園は城跡にしては小さな公園だが歴史はいっぱい詰まっている。

白いコンクリートの塀には狭間がある。実際はどのようなものだったのだろう。
古絵図では堀の東奥側は弧になっている大きな食い違い虎口だったようだが、現在そのあたりは住宅地になっている。

コンパクトながら、白い壁と緑の天守がある町というのは、本当にいいものだとおもう。私の地元にも、浦賀城という小砦があるのだが、冗談半分に言うが東京湾に向けてハリボテ天守でもあったらいいのに。

内堀の東面、ここまで遺構として残り、その先は住宅地である。宅地は、国道471号に合わせて碁盤目状に造成されている。

城の向きは真逆だから少しだけ余剰スペースがあって、やけに主張する大きな岩が置かれている。昔はこの岩の真ん中あたりから水でも出ていたのかもしれない。

長男かけが待ちかねているので、いよいよ主郭へ入る。
広くない。現地解説板には50m四方とあるが、古絵図には廿間四方とある(約36m)。

広くない主郭に大きくない天守。これは良い。なかなか良い!
現在は模擬天守であるが、古写真には現天守がある部分に算木積みの石垣が確認されている。

このことから、基底に石垣を持つ重層の櫓が建っていたのではないかと推測されている。櫓台の3面は主郭に面しているが、西面は断崖であり、高石垣があったとも考えられる。
東町城は、戦国時代に甲斐の武田信玄が越中攻めを催した際に、その重臣・山形昌景が江馬氏に命じて築かせたという。後に江馬氏は滅び、金森氏が入国。この城は家臣の山田小十郎というものに託された。

模擬とはいえ、天守は木造で建築されている。昭和45(1970)年に三井金属鉱業株式会社が神岡鉱業所の創業100周年を記念し、犬山城や丸岡城といった割と近くに在する現存天守を模して整備したものだ。

天守に登ってみる。1階は「江馬氏城館跡ー中世武士の庭園と戦国の領域支配ー」をテーマにこの地に纏わる江馬氏の城跡の調査結果を展示、2階は「神岡遺跡物語ー縄文~中世ー」をテーマに、縄文土器や江馬氏の陶磁器などが展示されている。

神岡城の名は、この木造模擬天守が建てられた時に公募された中から選ばれた。つまりこの天守が「神岡城」ということになる。

越中街道に面した小高い段丘上の立地はさすがで、高原郷(たかはらごう)と呼ばれるこの地域だったり、東町城下町を一望することがでる。

東町城は江戸幕府初期の一国一城令によってあえなく廃城となったが、その町割りは金森氏が築いた他の高山や越前大野の構造と似ている。計画的な構えの城下町は、この短い金森時代の衣鉢を継いでいると考えられる。

さっさと天守を登って降りて、主郭でかけっこしていた長男かけと次男くんじにやっと追いついた。待ちわびでいたふたりが飛びついてくる。ぶっ倒れながら撮ったのが下の写真。

最後は、旧松葉家へ。
神岡町に明治元年頃に建築された古民家で、高原郷土館を整備するにあたり、現在の場所に移築された。町内で唯一現存する合掌造りの建物である。

ポケットパークのようなコンパクトな城ヶ丘公園。古民家の存在は、この公園に絶妙なアクセントをもたらしている。鉱山や城跡としての神岡に、人々の暮らしがそこにあったことを感じることができる。

納屋。この色彩の少なさ。これこそが古き時代の日本の道具類だ。目に優しいぞ。

次男くんじは外でお散歩。自由にさせ過ぎかな汗
「くん、入っておいで!迷子になっちゃうよ」

長男かけ、くんじは2階の養蚕部屋へ。
「おとーさんは、下もうちょっと観てくからー。」

広間には囲炉裏があって、床板敷の上に畳が置かれている
仁丹の自動販売機。仁丹とは16種類の生薬を配合した口内清涼のお薬である。

もはや懐かしくない、私が生まれた昭和後期にはすでに存在しなかった古いラジオ。

上階へ行ってみる。すでに子どもたちは降りて外で駆けまわっている。気温は35℃。

様々な民具が展示されていた。
「川上家民具」と説明に記載されていて、昭和57(1982)年に当家の民具全部が寄贈されたという。

旧松葉家は35℃の神岡にあっても、多少なり涼しい。日本の古民家は、風が通りやすい構造だ。ちなみに屋根は移築時に保存上、銅板を覆ったという。
東町城跡は、廃城になった後は農地として埋められ、戦後は住宅地へと削り取られた。

それでも今では遺構が調査され、縄文時代から戦国時代、そして鉱山の時代を経て、今は宇宙である。この数奇でカオスな町を、この神岡城を中心とした高原郷土館で学ぶことができる。
さて、そろそろお腹が本格的に空いてきたね。また道の駅に戻ってみよう!
つづく👇
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旅のメモ📝
| 🏯 神岡城・鉱山資料館・旧松葉家 ⛰ | ||||||||||
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| わが家の所要時間 | 26分 | |||||||||
| 住所 | 岐阜県飛騨市神岡町城ヶ丘1 | |||||||||
| 入館料 | 個人200円、高校生以下無料 <共通券(史跡江馬氏館公園会所・庭園)>大人300円 |
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| 営業時間 | 9:00~16:30 | |||||||||
| 休館日 | 無休(12月から3月は休館) | |||||||||
| 駐車場 | 無料 20台程度 | |||||||||
| アクセス | <高山市街より>国道41・471号経由で約60分 <富山市街より>国道41・471号経由で約60分 <JR飛騨古川駅より>車で約30分 バスで約40分(濃飛バス西里バス停下車)、徒歩約18分 道の駅 宙ドーム・神岡から徒歩約10分 |
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| ホームページ | 高原郷土館(神岡城) | スポット | 飛騨市公式観光サイト「飛騨の旅」 | |||||||||