レインボーブリッジ遊歩道を歩き(過去記事へ)、目指しているのはお台場である。お台場は、現存しているのは大きくは品川第六台場と第三台場の2要塞のみだ。

第六台場は、東京湾に浮かんでいる立ち入り禁止の孤島である。今はその姿を留めながら、海鳥たちの憩いの巣となって久しい。

今やカワウやアオサギなど野鳥の安息の地として「バードサンクチュアリ」とさえ呼ばれるこの遺跡は、江戸幕府が滅亡する直前に築いた首都防衛の要塞であった。

海防強化のために計画された洋式砲台から大砲ををぶっ放すための台場は12基だったが、完成したのは6基だ。

立ち入り禁止の第六台場は、東京湾にあって緑に覆われ異彩を放っている。世界各地からくる船舶の乗組員も、この遺跡が目に入ると一体何の設備だろうと小首をかしげるのではないか。

東京は、江戸時代から一貫して世界有数の巨大都市だが、江戸城(過去記事へ)や明治神宮、そしてこの品川台場跡などで育まれている自然の多様さに訪れた外国人観光客は一様に驚くという。

レインボーブリッジ遊歩道のゴール近くで第三台場を眺められる。
第三台場は「台場公園」として整備され公開されている。

史蹟 品川臺場跡地碑。
台場公園側からだと、この碑は背中しか見えない。国指定史跡。

構造は第6台場と大小の違いはあるが、印象としては概ね似通っている。
同じように伸びた桟橋の先に、鳥たちも数は少ないながらのんびり過ごしていた。

レインボーブリッジ遊歩道を歩き終えると、すぐに台場公園へつづく道がある。
お台場ビーチで少したたずんでから行くことにした。この地へ来てアミューズメントの「お台場」へゆかない人など奇特な方に分類されるだろう。

第三台場へ向かっていると、大きなアオダイショウがサラサラと枯葉をこすらせて進んでいた。今でさえ孤島のようであるお台場にどうやって来たのか、蛇がいるなんて驚きだった。

品川台場は、そのぐるりを石垣で構築されている。
丁寧な積み方だ。

品川台場の石垣については、
JSCE 公益社団法人 土木学会 「品川台場石垣の構造について」という論文が大変興味深かった。
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1992/12-0395.pdf

品川台場の石垣には、西洋式の建築技術を採り入れ「はね出し石垣」が用いられている。日本では熊本の人吉城、函館の五稜郭など限られた場所でしか見ることができないレアな技法で積まれた石垣である。

品川台場は、中心が方形の窪みになっていて、四方に土が盛られている。
その盛られた土塁上に立ち、下方を眺める。

おお!良い眺めだ。
しっかり整備されていて、西洋式築城法で築かれた台場跡の姿かたちがよくわかる。緑の鬱蒼と茂った感じも古城感があり良きかな。

まずは外輪山(笑)のお鉢めぐりだ。
土の台上を2時ごろの方角から時計回りに歩くと、最初の角を曲がったところに砲台を模して昭和8(1933)年に復元されたコンクリートが設置されている。

その先の土塁下は森のようになっていて、池もあって鴨もいた。
この水たまり?は真水だろうか、はたまた海水なのだろうか(舐めてみればよかったか・・)。

土塁上に戻り、海の方面を眺めると、第六台場とレインボーブリッジが見えた。
第三台場が正方形に近いのに対し、第六台場は北側に切り欠きがある。

人類が忽然と姿を消して5年後・・・
って雰囲気でしょうか。

レインボーブリッジ遊歩道から眺めた史蹟碑。せっかく立派なのに正面から間近で観えない。レインボーブリッジの股下から、東京タワーが覗いている。

桟橋部分は残念ながら閉鎖されていた。
ここから海の方まで出て行ってみたかったなぁ。

柵から手を伸ばして、せめて行きそうな雰囲気を出してみた。
石垣の整然とした布積みが良い感じ。幕府の几帳面(?)な性格を顕しているのだろうか。

土塁から降りる階段は何ヶ所かあって、史蹟碑付近の階段を降りると、弾薬庫の跡地とされる場所であった。

幕末、ご存知マシュー・ペリー率いる黒船が浦賀港にやってきた。黒船の火力を知った幕府は泡を食った。大急ぎで江戸を守るための城塞を整備せねば、となり、11基の台場建築を企図した。

しかしその途上で日米和親条約が締結されたり、資金難などで頓挫。火も血も見ることなくこの「城」は、半ば歴史から忘れ去られることとなる。

窪地の中心部へと歩を進めてみる。陣屋跡の礎石が、縦長に遺っている。短く生えた梅雨時の雑草がさやさやと風になびいている。
今こうして眺めると、ちょっと牧歌的な感じさえするが、嘉永6(1853)年6月に黒船が来て、江川栄龍の指揮により11基の台場建設が着工されるのが同年8月。翌年7月には1~3の台場が完成し、12月には5、6の台場を竣工している。

そのスピード感は、幕府の実力の侮れなさを物語っているのではないか。しかもちゃっかり西洋式を採り入れている。まさに、「腐っても鯛」だ。

ただ、対応は遅すぎた。ペリー来航前までに、幾度か親善的な来航が実はあって、幕府は祖法であるとして(実際は祖の徳川家康は鎖国などしていない)悉く黙殺した。その結果、メリケンもイラついて砲艦外交の運びとなったのだ。

かまど跡は、史跡内でも格好の良い遺構ではあるものの、実は昭和3年にアウトドア公園として開かれた時に設置されたキャンプ用の「かまど」である。

かまどはともかく、台場建造時の人員資材の投入ぶりはさすが軍事独裁政権!と称賛したくなる規模のもので、第1~3の台場建造時だけでも延べ5000人の土取人夫が動員され、築造に計上された経費の総額は実に75万両!

幕末の石高ランキング2位とされる薩摩(島津)藩が72万石(1両=1石)と言われているから、その凄まじさが分かる。

ちなみに、現在の貨幣価値に換算すると700~750億円の事業ということになる(もう少しありそうだけど…浦賀の再開発事業より安いぞ(1000億円)。下記、先日書いた記事っす(*´з`)
ペリー来航の地・浦賀!横須賀市最大級の再開発プロジェクトで、なるか「第二の開国」

台場内のあちこちに残る弾薬庫などを眺めてまわる。少し前に雨が降ったこともあってか、あちこちに水たまりやちょっとした外構のような所に水が溜まっていた。海上だもあるし水はけは悪そうだ。

再び土塁の上へ戻り、桟橋のあたりを観てみる。
整備されてはいるものの、ほど良く伸びてきている雨季の緑たちが咲かせる花が小さく黄色くてかわいらしい。

品川台場は、大正15(1926)年には国の史跡に指定されている。
台場着工から73年である。2026年で、史跡指定から100年となる。

あまり意味もなく数字を並べてみたが、開国からのスピードがあまりにも早く、この「史跡」は出番もなくあっという間に用済みになって、「抑止力」は名ばかり。昭和初期の娯楽・アウトドアキャンプの遊び場となる。

そして今は「お台場」の愛称で親しまれる現代の遊び場のはしっこで、ひっそり石積みを海面に映している。
続日本100名城・品川台場は、首都東京・江戸湾の入口にあって旺盛に行き交う船を眺めながら、そっと時を流しているような、そんな場所だった。
実は続く(他の台場跡の痕跡を訪ねてみました☆)
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旅のメモ📝
| 🏯 品川台場 🌊 | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| わが家の所要時間 | 59分 | |||||||||
| 住所 | 東京都港区台場1-10(第三)台場1-11(第六) | |||||||||
| 営業時間 | いつでも | |||||||||
| 休館日 | 無し | |||||||||
| 駐車場 | 無し 近隣パーキングを利用 |
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| アクセス | お台場海浜公園駅 徒歩10分 品川駅 徒歩1時間10分 |
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| 👑 品川台場 🔱 | ||||||||||
| 国指定史跡 | 品川台場 | |||||||||
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