しったかぶり!日本紀行

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41歳でADHDとわかるまでの話 その4:心理検査、知能検査を終えて

 このブログは、適応障害で会社に行けなくなった直後から本格的に立ち上げた。基本的に旅行ブログなので、発達障害とかADHDとか泣いた話とか急に始まって、まとまりのない文書で写真もないから退屈に違いない。

 

これまでの記事っす。

sittaka-travel.com

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このブログは、直前に行った石見の旅から始まった。いつも、旅が終わるとテンションが上がり、苦しくたってまた頑張ろうと思えていたけど、この時は違った。旅が終わって、会社へ行く日になると、心の沈み方が尋常じゃなかった。

 

あ、もう、一突きだな。と思ったのはその時で、実際それから1週間とちょっとしかもたなかった。会社へ行けなくなってから、猛然とブログを書きまくった。これがハイパーフォーカスでなくて何だろうというくらい。そして、発散(アウトプット)がある程度進んだら、吸収(インプット)をしたくなった。むろん、旅行のことである。

 

知能や心理の検査をしたのは5月も半ば頃で、少し回復期だったと思う。そんな状況を見てカウンセラーのCさんは、「休んでいるんだから、好きなことやったらいいよ」と言ってくれた。

 

心理検査、知能検査はなかなかしんどい作業で、当日3時間半近くかかった。宿題もあった。宿題は公共のフリースペースでやったりもした。

 

その結果。

 

確かにADHDの傾向があること、医療機関で診察を受ければ診断は出るであろうこと、知能そのものは、むしろ平均より上で、一部平均より下回った部分が、まさに自分のウィークポイントだった。アンバランスの大きさも、違和感の要因だったようだ。

 

そして

 

「どうして理数系の業界に入っちゃったの?」

笑いながらカウンセラーCさんは言うのだ。この言葉、そっくりそのまま高校生の時に担任の聞いた。

 

「どうして工業に来ちゃったの?」

 

「工業数理」はちんぷんかんぷんで、国語はいつも「10」だった。テストは不注意で1、2問は間違えるけど。だって、全体の成績悪くて、他に行けなかったんだもん。

 

 

理数に必要な部分の知能は低めで、逆に言語が突出していたのだ。つまり国語が得意なのだ。どれくらいかというと、どうやら大学院くらいらしい。上位20%ということだ。

 

しってる

 

しってるよ。国語が得意なの。なんなら、なーんだ、たかが上位20%か、って思うほどにはうぬぼれてるよ。

 

あまりにも納得感たっぷりの面白い結果に、終始笑っちゃって仕方が無かった。

高校の時は、国語関係に関してだけは、学年トップだった(まぁ、しょせんそもそも成績イマイチが集った工業高校だけどね)。中学の時は漢字を書けないからそんなに高くなかったけど、高校に入ってから漢字練習だけしておけば、自動的に高得点が取れることを「発見した」。

 

97点とかで、ただ、「ラ行五段活用」みたいなのはからっきしだったし今も意味が分かっていない。その、なんやら活用やケアレスミスで100点を取りこぼしていた。

 

言語の結果のわかりみたっぷりだけど、苦手分野・低い部分もわかりみしかなかった。そうだよね。そうじゃなきゃおかしいよ(詳しい検査の内容には触れてはいけないのでわかりにくいけど)。

 

長く、「自分」は謎の存在だった。

 

常に、ほんの少しずつ、周囲と違う気がするのだ。

 

・皆が簡単にたどり着く答えにたどり着けない。

・先に答えにたどり着いていても、理解されないから皆に合わせてたら、ずっと後でその答えにたどり着き、(やっぱりか)と心の中で思う。

 

得意と、苦手で、かなり大きな差が出ていたのだ。

若い頃、ずっと持っていた違和感。ここに、少なくとも答えの一端があった。

 

心理検査でも、知能検査でも、謎だった「みそっかすのピース」がいくつかパタリとはまった。

 

なるほど。

 

知ることは、武器だ。強みと弱みが露わになって、挑むか、避けるか、手を結ぶか、色々な選択肢が広がる思いがした。

 

カウンセリングを一旦終了し、心療内科へ移行し、適応障害の診断を得て、自立支援医療はADHDで補助金をもらっている。

 

障害という意味では、診断書が出ようが出まいがどっちでもいいのだけど、あの魔界に迷い込んだような最悪の日々があった事実。

 

これから生きていくにあたり、こういう日々があって、本当に困っていた、今の社会で、「障害」と認められる程度には困っちゃう「特性」があるという事実を自分の中に残しておきたい。そして、その診断をもって、自身のこれからの指標の一つにしたい。

 

そう考えるようになった。理屈というより、そんな気がするのだ。

 

ADHD、発達障害についての本を、3冊読んだ。

 

①図解で子供のADHDをメインに取り上げた「ADHDがわかる本 正しく理解するための入門書」。

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②マンガと文章でADHDだけではなく、ASDやSLDについて書かれた「マンガでわかる!発達障害とグレーゾーンの人が見ている世界 大全」。

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③ADHDについて、より医学的見地での解説と、強みを活かす、実践的な内容の新書「多動脳 ADHDの真実」。

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読む順番はベストだったなと思うのだ。入門、大全を呼んだタイミングは、まだ理解も今より少なく、心も折れていた時だから、読みながら涙がホロホロと出たりしつつ、ADHDについて文と絵で理解をすすめ、なんとなく理解と知識の地盤ができたところで、得意の国語だ。文章で書かれた「多動脳」は、前向きで、もの凄く力強い応援歌に見えた。

 

ADHDは、サバンナで生き残るために人類が身につけた生き残り策であり、そのために人類は発展した。そして、役割分担の中で、人類の何%かは確実にADHDである。ただし、それはグラデーションの中の出来事なので、濃い薄いあれど、誰にでもその傾向はある。

 

ADHDの傾向が濃い人は、私のように仕事で躓いたり、もっと若い段階でしくじったり、あるいは起業家として大成功していたりもする。多分、自分はグラデーションでも薄めの方だと思う。もっともっと困り続けている人もいるはずだ。

 

ハイパーフォーカス

ハイパーアクティビティ

これらは、人類の新たな道を拓く必殺技になり得る。悲観することは全然ない。

 

自分自身で考えてみれば、このADHDは、これまで良い面もたくさんもたらしてくれていた。ものづくりの現場で、本当にピンチだったとき、この集中力で人より多くの製品を作ることができていた。

 

自分を味方につけよう。

 

そんで、自分を好きでいつづけても大丈夫。

それがわかった。

 

少し休んだから、

社会に戻って行こうと思う。

 

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